diary

顔は塗っていてもいなくても見る人には物悲しく美しい

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夢の中にでてくる人は10代のままで、39歳のぼくは声なき沈黙を話しかけている。父親と娘ほどに離れてしまいつつある異なる時空が同時に成立するんだ。どうしてサイレントフィルムなんだ。夢裡と覚醒の断崖を落ちてゆく。

「今日な、へんなことがあったわ」

と自分の声を再生した。あの人は笑ったまま。しゃべらない。声を再生できないねじれの時空では、あれれ、アレって、はてなマークが立体的にあちこちにポンポン浮かび上がる。

断崖へ落ちて、からだがピクンってなったら目が覚めて、いなくなった人は脳のハードディスクの適当な位置へデータとして書き込まれる。感情は誘発されず、60分後には存在しなかったほどまどろみ消去されてしまった。

現実では ー 。

スタバの前の白いベンチに座った彼女の顔を横から眺めていて、声をどうにしかして再生しようともがいている。脳のハードディスクをスキャンする。

どこに保存したんだ?

彼女とは、考え方や人に対するアプローチや己への捉まえ方が異なっていて、ひょっとして和集合は存在しないかもしれないってぼくはおびえていて、でも、それでよいですって思い直し、横から眺めて大切な人であることに変わらないリアルが、感覚を刺激して感情を誘発し、自分のからだを実感する、一方で、大切だといっても自分が何かしているわけでもなく、ただ、大切だ、と定義している自己愛に陶酔した我を疑い厭い憂いの眼差しをむけ、時に何も知らないままのほうが、何かを知りすぎているよりも慮れる可能性は無限に近いではないですかって自慰。

彼女の顔は塗っていてもいなくても見る人は物悲しく美しい。

ほんとうに美しい。

「すべて」を表現する語彙をぼくは持ち合わせていない。残念である。

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