念慮

2011.10.14 曇のち雨

CMスキップ機能搭載の録画機を開発した企業のCMを見てもらえない

第五十候、菊花開。滑子をちょくちょく買う。味噌汁で使う。汁にぬめりがでる。天然物は秋から初冬。柘榴がならびはじめる。めったに口にしない。

風呂から上がって寝る前にストレッチする。ストレッチしたらよく寝られる(ような気がする)。サボったときは眠りが浅い(ような気がする)。たぶん気のせい。少し強めのストレッチはさわやかな疲労感をもたらしてくれる。

なのにサボる。毎日やればよいのについつい寝てしまう。絶対やらなければならないコトではない。やらないからといって目に見える支障をきたすわけでもない。スキかキライかと聞かれたら面倒だと答える。

自分を損なうって、小さな積み重ねなんだ。ストレッチすれば良質な睡眠がとれて目覚めがよいとわかっている(あるいは錯覚している)のに、ついついやらずに朝を迎えて、ボォーっとする。3日もあけば身体はガチガチ。もうやりたくなくなる。

私が率先してやっていることを他人がやらないからという理由で他人へ「感情」を持つ。立場を入れ替えて、他人がやっていることを私がやらないからという理由で他人が「感情」を持っているかもしれない、そんな想像は欠落している。

そうしてストレッチをやらない自分は損なわれていく。

絶対やらなければならないコトでもないし、やっておいたほうがよいコトなんて、たぶんごく限られている。なのになぜだかわからないけれど、「やっている」私と「やっていない」他人を比較して、「感情」を芽生えさせ、やがて「感情」は自分で制御できなくなり(私は制御できていると思い込んでいる)、「感情」は言葉にならない「からだからにじみ出るヘンなふるまい」へ昇華し、他人との「関係」を停滞させる。関係が良好、関係が悪化ではない。停滞する。

ストレッチすればよく寝られると錯覚している私はやらない他人へ「感情」を持ち始める。

良好と悪化は、きちんとまじりあったうえで生じた均衡の崩れだから、混じり合ったプロセスをお互いふりかえられる機会を得たら修正できる。契機を得られるか得られないかは運かもしれないけれど。

停滞は違う。まじりあわない。お互いに見えない線を引く。どちらが先に引いたか判別できない。気づいたときには境界が設定されている。境界が設定されていることをお互いが自覚している。沈黙の応酬。沈黙の眼差し。不愉快の視線。自覚を言い訳にして契機からますます遠ざかる。自分の進化をさまたげる。

自分を損なうとは、自分自身が自分の変化を妨げて、他者の知性にアクセスできる可能性を自ら閉ざす行為だ、と感じる。思ったり考えるではなく、そのように感じるだけ。他人が自分に対してもたらす災いによって引き起こされた不幸な状態ではない。

正法眼蔵随聞記 五 六 学道の人悟りを得ざる事は

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.294

「本より誰教へたりとも知らざれども、心と云へば念慮知見なりと思ひ、草木なりと云へば信ぜず。仏と云へば相好光明あらんずると思ウて、瓦礫と説けば耳を驚かす」のくだりを自分にあてはめる。仏は瓦や石だと言われて驚く。難しいことではない。ちゃんと自分にあてはまる。そう言われたら驚く。言われても信じない。

誰から教わったのはさだかでない。さだかではないけれど確かに「何か」と思い込んでいて、その「何か」が現実と一致しないと、信じない。現実をゆがめる。

本を読み、本に書いてあることと現実が違うとしても本を捨てない。その反対もある。自分の考えと本の主張が違えば、本がおかしいと思う。

こだわることにこだわらず、目の前で起こっている出来事を素直に吟味できたらちょっとだけ自分を褒めてやりたいんだけど、そんな機会は訪れない。はがゆいね。