愚癡

2011.10.25 曇

冬型の気圧配置の影響かな、ぐっと冷え込む。昼間の気温も上がらず。20℃を下回る。ここ2週間ほどで、日の出が遅くなった。急に遅くなったわけでないと承知していても、気づくのは「急」に感じたからで、変化は連続の中に溶け込みすぎてしまうと気づかない。目が覚めるころはまだ薄暗い。6時前に琵琶湖の方角がうっすらと明るくなり、少しずつ明るくなっていく。部屋で光線のグラデーションが感じられる日は心地よい。

体重を計測したら55.6kg, 体脂肪率10.6%, BMI 20.2 基礎代謝1413kcal。一月前と比べて体脂肪率が1%上昇して基礎代謝50kcalほど低下している。数値とは裏腹に腹のまわりや顎下をさわるとプランプランしよる。皮膚という人もいらっしゃるが、ひとつ歳を重ねたら確実に”タレ”ている。

それがイヤだという人はいる。自分はといえば、「ああ、タレてきたー」ぐらいで抵抗感はない。それよりも、からだの内外の変化に鈍くなるほうがコワイ。

“あの人の声はなぜ魅力的なのか ~惹かれる声と声紋の科学~ (知りたい!サイエンス)” 鈴木 松美 を読む。知りたかった事柄が記述されている。興奮した。声を計測して数値で算出している。グラフへ置き換えてある。実測の結果をもとに音波と振動に分解して解説する。主観的な感覚の記述がない。哲学の視点もなし(そんなものいらない)。ずっと興味を持ちつづけていた「声」についての糸口をつかめた感じ。

といっても、実際に誰かと会ったときは、判断はでたらめだ。私の場合、他者とかかわり合おうとしたら「声」に左右される。影響をかなり受ける。不快に聞こえる音色は、無意識のうちにさける。普通に話すときの声ではない。演説やスピーチといった「ひとり語り」するときの声。なんとなくワンオクターブあげてしゃべり、時にはがなり立てる声。その声の音色でその人のある要素を判定する。その時の声としゃべり方が不快だってからだが直感したら、なるべく近づかないようにしている。思い切り主観的。

16:00前に出発。19:00からF先生と院内システムについて打ち合わせ。大阪駅で途中下車して書店へ。“響きと怒り (上) (岩波文庫)” フォークナー をぱらぱらめくる。“アブサロム、アブサロム!(上) (岩波文庫)” フォークナー も読みたいのにさ。さて、どうしたもんか。読みたいなぁって意欲と読みこなせるかなぁって躊躇がウロウロしよる。頭悪いし、感性はとぼしいから読み込めないだろうなぁってウジウジ。

19:30から打ち合わせはスタートして21:00前に終了。思うところがあっても、個人攻撃的嫌悪感情の因子であるから制御する。自分だけが持つ因子だ。そんな因子は不用意な対立を生むだけでなにも創造しない。

昨日の朝、TwitterのTLを眺めていて、誰かのツイートに触発されてふっと浮かんだ。好きと嫌いと正しいと間違いのマトリックスがあって、「嫌いだから間違い」に○をつけられても「嫌いだけど正しい」に○をつけられない。それに○をつけられるほど自分は成熟していない。不惑だというのにまだそんなふうに感じてしまう。情けないやら。

正法眼蔵随聞記 五 七(二) 愚癡なる人は

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.301

「愚癡なる人はそノ詮なき事を思ひ云フなり」と云う。年老いた尼君が、昔は身分のある婦人であったことを話す。背景に「いやしい身分でいるのが恥ずかしい」の気持ちがある。

尼君であるいまの己をいやしい身分だと勝手に解釈して恥ずかしいと感じているのか、いやしい身分だとまわりから見られやしないか不安になって恥ずかしいのか、どっちだろう。悩んだ。そこから先を読みこめない。

ただ、どっちであろうが、「いやしい身分」も「恥ずかしい」もいらぬものであり、学道になんら役に立たない。

尼君に限らず私にもそういう気持ちがある。自分を誇張してみたり、自分が他人からどう見られているか気になり、他人の目線を基準において振る舞ってみたり。