善悪

2011.10.28 晴れ

就職活動のとき、「自己分析」を目にした。まずは自己分析。何を分析したらよいかさっぱりわからず、不惑に近づいてもわからないまま。テクニックを勉強しなくちゃいけないと理解しても、何を分析してどんなふうにアウトプットすればとまどった。履歴書に向き合えば、困惑の態は顕著だ。

志望動機もしかり。「御社は….」という台詞を口にできなくて困った。そうやって振り返ったら、どうしてもやりたいことがいままでなかった(と納得させている)。新卒で会計事務所から内定をもらったとき、もう一社、折り込み広告の会社から内々定をもらっていた。その時も今もなんでだろって思うし笑える。二社は畑違い、、この事実からして何をしたかったのかよくわからない。

あの活動から自分の弱点を認識できた。とてもあがり症である。高校の時、大勢の前でしゃべる機会があり、緊張した記憶はなく、大学の時もあがらなかった。だから、面接でガチガチの自分に気づいてショックだった。

第一志望だった人材派遣会社の最終面接は最低最悪のデキ(なんでまたココに人材派遣会社が出てくるんだろう)。何を言っているか、さっぱりわからなかった。面接が始まって10分ほどやりとりしたら、落ちるなぁって自覚できた。不思議と「自覚」する過程では緊張しない。まるで他人事のように自分を眺めている。隣の男性はよどみなく答えていたのだけ覚えている。何を話していたかは覚えていない。

あがり症はいまも変わらない。人前でしゃべりたくない(後述)。いまはしゃべらなくてよいからあがり症を自覚する機会は減った。爾来、治していない(よくないことなんだろうけど)。ただ、面接であがるのだけはなんとかしないとなぁとは思う。

19:00からM先生のミーティング。16:00前に出発して大阪駅で途中下車。書店に立ち寄り“発生的認識論 (文庫クセジュ 519)” ジャン・ピアジェを探す。“構造主義 (文庫クセジュ 468)” ジャン・ピアジェがめちゃくちゃおもしろいから他の著作も読みたくなった。

19:00からスタート。私がファシリテータ。メンバは、それぞれの「知りたいこと」と「わからないこと」を持っている。

よく例える話。1枚のジグソーパズルの絵がある。各自は同型のピースを同枚数持っている。誰かがあるピースをはめたら、他の人は、それと同型のピースをすてる。みんなで話し合いながらピースをはめていくんだけど、実際は、自分の「視点」から見て、欠けた場所へピースをはめる。同じ瞬間に全員が「(欠けた場所を)見つけた!」ってシーンは少ない。

ある人が質問する内容は、ある人にとっては見えていない。そこになぜそのピースがはまるのかわからない。あるいは欠けておらず、もうピースははめこんである。

全体像が示されていないからわからない。完成させなければならない一枚の絵を最初に提示して、はめこんでいくピースをみんなで考える。そのとき、「マッピング」を忘れていけない。常に「現在位置」を意識する。いま、1枚の絵のどこを作成しているか、みんなが認識できるように「現在位置」を確認していかなければならない。

ある人にとって了解済みの要素はある人にとっては未知であり、その逆もある。Aはいいですか? Aならば次はBですね、じゃぁ、Bはいいですか? ではBだからCですね、とみんなで「認識」と「理解」をしつこく共有してすすめる。

あいかわらず最後の感想は緊張する。感想を述べる10分前あたりから何をしゃべろうか頭の中でまとめだし、どうやってしゃべれば自分の言いたいことがシンプルでスマートに表現できるか思い巡らせる。いざしゃべりだしたら目も当てられない状態なんだ。毎度のこと。

正法眼蔵随聞記 五 八の(二) 善悪と云ふ事定め難し

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.313

世間の人が善いと言うことが、仏法では悪く、世間の人が悪いと言うことが、仏法では善いと云う。この善悪は、一般的なニュアンスとは異なると解釈している。

だとしても、善悪是非の判断は、存外、集合知が機能するケースもあるだろうし、衆愚と化すときもある。善悪是非は価値であり、価値の判断は基準を持っている。各自の判断を忖度する一方で、判断の基準が形成された文脈に興味を持つ。背景と文脈の関係を紐解いていくほうに自分の知を機能させたいと願っている。

とはいえ、現実の場ではそんなにうまく作用しないし、ずいぶん流されているなぁ。それがつまるところめんどくさいであり、無関心。そして自分の漸進を自ら妨げている。