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行歩

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2011.10.31 晴れ

皇子が丘公園

同じ時間を過ごす。40年、よりそっていたはずなのに実はただ隣にいただけだった。同じ「ココ」にいたのであって、同じ「コト」を分かち合っていない。そう気づいたとき、ふたりは別々のヴィークルに乗ってそれぞれの終着へ向かう。必死に軌道を修正する。時すでに遅し、か、余地が残っている、か、は、ふたりがこれから向き合っていく「日常」である。

第五十三候、霎時施。そろそろ赤むつの塩焼きを食べたくなる。なかなか手が出せないけれど、美味いだろうなぁと眺める。1日1個の林檎は医者要らずという。先日、foodium堂島へ行った。一度見学したおきたかった。林檎も近所のイオンで見かけるのより色つやがよく見える。ライティングや店内のデザインでウキウキ感が変わる。不思議。

自分の頭で考える。“自分の頭で考えるということ” 羽生 善治, 茂木 健一郎, “自分の頭で考える” 外山 滋比古, “自分のアタマで考えよう” ちきりん など本のタイトルになるわけだから、自分自身に照らし合わせたら、自分の頭で考えない人が多いか、自分の頭で考えたいけれどそれってよくわからないってニーズが多いのか。

博引傍証強記博覧の人は、「×××読んだ?」「***知ってる?」と質す。「知っている」土台がなかったら会話が進まない。そういう情況はある。質された方は、知らなければ焦燥感にかられる。もしくは劣等感をいだく。あるいは不機嫌になる。大人であればどちらも抱え込まずにっこり微笑んで知らないと即答する。

知ってなければ進められない題目やトリビアルな問題を取り上げる知識と情報は計測できる。年間に数百の本を読む、ネットに接続して数千のブログや何百通のメルマガに目を通している、といった言い方に変換できる。だから無意識に「計測」を競い合う。表現を柔らかくしても、根っこには数量が隠れている。自分の「計測」を相手に伝達して、今度は相手が自分の「計測」を返信する。

受信者は、ストックしていない知識や知らない情報へ会話から獲得したら感心する。一方、発話者が自ら考えた視点を伝達しても受信しているかどうかすら感知できない。「それはあなたが勝手に考えたことでしょ」の無表情が現れる。会話は情報の交換であり視点の交錯ではない(と想像する)。

通常の飼料に加えて人工甘味料を混ぜたヨーグルトで飼育されたラットは食欲が止まらず体重が増え続けるそうだ。摂取カロリーを監視して食べることをやめる決定を下す脳の機能が徐々に低下すると推定されている。計測できる知識と人工甘味料は似ているなって感じた。

正法眼蔵随聞記 八の(三) 世間の人多分云く

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.316

心があれば善悪の分別がつけられるし、手足があれば合掌したり歩いたりするのに不足ない。仏法を行ずるには、それだけで充分であると云う。

素質は関係ない。悟りを得た人の中にはあきれるばかりひどい気持ちを持った人もいる。おもしろいね。とてもおもしろい。まじめに型どおりの修行をしているようで実は「己の考え」に執着してしまい、悟りを得られない人がたくさんいる。

己が私の邪魔をする。

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