得悟

2011.11.05 曇のち雨

ある出来事を考察するとき、「私が逆の立場であるならば…..」と口にする。ついやってしまう。即座に自分の頭のなかで否定する。相手の立場になっていない。立場を置き換えられたとしても、問題を吟味する視座が変わらなければ、見ている景色は変わらない。「眺望点」を変えなければならない。

「私が逆の立場であるならば…..」の視座は、私のままである。主語の私は変わらない。主語を他者にしなければならない。できるだろうか? その不安がよぎる。 問題を吟味するとき、私が過去に経験した事柄から最適なフレームを選択して感想を述べる。私が感じた印象を述べる。他人なら”こう”感じるかもしれない、と「私」が感じる。「私」を取り除いた純粋な他人の立脚点は含まれない。そんな立脚点を含められるの?って悩む。

経験していない事柄のフレームをどうすれば手に入れられるだろう?

そんなふうに思うようになった。だから、「私が逆の立場であるならば…..」を口にしたら即座に自分を否定して、「ほんとう」に相手の「眺望点」を探そうとする。思考の道筋を切り替える。今まで辿っていない理路、あるいは拒否していた理路へ歩み寄る。

もし歩み寄れたとしても相手の眺望点を探せるかな? 原理的に不可能だと思ってしまう。人の数だけあるかもしれない眺望点を特定できない(かもしれない)と承知している。どこまで近づけるか? 解がない問題について向き合う。主語を他者にして理路の行き先をどこまで辿れるか。それが想像力のような気がする。

11/04(金)、書店で“正法眼蔵(一)全訳注 (講談社学術文庫)” 増谷 文雄“想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心” 松沢 哲郎 を購入。どうしようかと思ったけど、やっぱり正法眼蔵も読破したくなって購入。ただし、岩波版を買う心意気はまだ芽生えず。『想像するちから』の”チンパンジーは絶望しない”のくだりをぱらぱら読んで驚く。希望と絶望。

正法眼蔵随聞記 五 十 楊岐山の会禅師

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.321

一方が雨漏りしていても、もう一方の漏らない場所で坐禅すればよい。悟りはすまいのよしあしによるものではない。

「私は相手からどう思われるだろうか?」という気持ちがほんのわずかでも残っているかぎり、私を完璧に捨てられないかぎり、他者の心情を慮るのは思い上がりなんだろうなぁって感じはじめる。ならば私のなすがまま、思うがままに接すればよいかと構えたいが、そうではないと教えられる。ある種の敬意と卑屈は表裏一体であり動機は同一である。

ただ自分に問いたいな。「他人からよりよく思われようとしている偽善欺瞞の私はほんとにいないの?」って。