diary

智者

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2011.11.16 晴れ

今朝もThe Beatlesにしようかと思ったけどやめちゃって、andymoriのナンバから1984でスタート。夕陽を眺めながらぼんやり聴きたい曲なのにね。一日のスタートにして終わっちゃいそう。

“死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)” 内田 樹 が枕元に置いてあり時折めくる。読んでいない。フレーズをスキャンするようにパラパラめくる。

失ってから気づくかもしれない。否、失わないと気づけない存在があるかもしれない。4年前、失いかけた恐怖を私は体験して、今も恐怖と向き合っている。でも、毎日向き合っているかと問われたら、向き合っていないと答える。忘れる日がある。忘れられることが生であり、幸福だと自分に言い聞かせて恐怖から逃げる。

「40年間、同じ場所にいたからといっていっしょに暮らしているわけじゃない。同じ”コト”をした時間と記憶を分かち合わなければ、いっしょに暮らしてきたといえない。私はそうしてこなかったから今は深く反省していっしょにいる」とある人は私に忠告してくれた。

その時、誰かが書いていた線路の話を思い出した。定年を迎えた夫が、妻と同じ列車に乗って同じ景色を見ていたつもりがそうではなかった、とある日気づく。一本のレールの上に走る列車に乗り合わせていなかった。二本のレールの上で走る二つの列車。たまたま同じ方向の列車に乗っていたんだと。これから先、一本のレールの上で同じ列車で走られるのか、あるいは二本の上であっても同じ方向へ向かえるのかわからない。そんなお話。言葉で遊んでいる。読み返した時、そう感じた。

「生体」と「死体」のあいだに「死者」という、どちらにも属さないカテゴリー(同P.203)について話すとき、死者が身近な人だと、正しい時制を使えないときがある。過去形にしたくないためらい。どんな話題のときにいかなるタイミングで話が始まったら現在形を使うんだろう? それを自己観察できていない。ただ、現在形で語った後に残る言葉の残留物を大切に掬いとりたい。現在形を使ってしまった前向きな後悔が空間の襞に入り込んでずっと残っている。

正法眼蔵随聞記 六 五 僧問うて云く、智者の無道心なると

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.345

「智者の無道心なると、無智の有道心なると、始終如何。」と僧が問うた。対して答える。答えを読んで納得しまいがそういうものかと理解する。智者であること。では智者とは何ぞやと、私は問いたいな。

「結論が出ないことに耐える能力こそが知性である」(“死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズケアをひらく)” 内田 樹 P.217)とおっしゃる。

待つことと思い通りにならない他者に苛立つことは矛盾している。矛盾に苛立ち、耐えられない自分は型を求める。待たないではじめからその型を使えばよかったさらに自分を苛立たせる。智者になれたらそんな苛立ちから解放されるのかなぁなんて夢想する。

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