diary

揀択

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2011.12.06 曇

夢の中にあの人がでてきたので、今朝はまきちゃんぐの “愛と星” でお目覚め。久しぶりって夢のなかでハグして “笑って踏んで泣きながら壊して愛して憎んで” ね、どうしてますか?

“暇と退屈の倫理学” 國分 功一郎 を読了。ため息。脳裏によぎる言葉。

難しいことをわかりにくく書くのは簡単である、難しいことをわかりやすく書くのは難しく、簡単なことを難しく書くのはバカである。誰が最初に表明したか知らない。骨格は変わらず外形を変えてメディアに現れるフレーズ。

私はバカであると再認識。再認識をもたらしてくれた価値ある一冊。簡単なことを難しく書くのは、「賢い」にあこがれるから。難しい事柄を平明に語る視座と思考にアクセスしてみたい。

せめて簡単なことを難解風に書いたら難しいことを考えている似而非を体験できるかもしれないと目論んで書き続ける。

いつになったら自分のことをバカと認められるか。「バカだよ」とやや微笑んで、相手が受けとめる反応を気にしないでさらりと衒いなく口にする。それがいつ訪れるか。というよりも、自分が無へいつ近づけるか?

相手が理解していないから伝わっていないと思う。そうかな。伝えていないかもしれない。伝え方(=メディア)がおかしいのではく、伝える中身(=コンテンツ)が壊れているかもしれない。

よしもとばなな先生の小説を読むたびにどうしてそんなふうに表現できるんだろうって思う。難しい単語はない(あるいはほとんどない)。読み方と感じ方は読者の人数と等しいと感じる。

ひとりで書いたコンテンツが、受信する人の五感と思考を刺激するってすごいな。五感と思考は「たまたまその時に居合わせる環境」にたよっている。だから数年後に読み返せばまた「たまたまその時に居合わせる環境」によって読み方や感じ方は変わる。

一回受信して一読してゴミ箱へ捨てられるコンテンツより一回受信して一読して保存されてふと読み返されるコンテンツを作りたい。そんな文章を書けるようになりたいな。

正法眼蔵随聞記 六 十八 大恵禅師の云く

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.386

「至道かたき事なし、但揀択を嫌ふ。」と『信心銘』は言う。是をとり、非をすて、善をとり、悪をきらうという差別の心をやめれば、ただちに真実をそのままに受け取ることができる。

自分を離れないからえりきらいする心を持つ。

「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代へ – Chikirinの日記 入ったとしたら、「えりきらいする心」が問われる。

「あいつは○○だ」と言う前に強く自制していったん飲み込む。「○○だ」と言おうとする自分は、相性がよくて気に入っているから持ち上げていないか、ふるまいが気に入らないから非難していないか、を吟味したいな。

吟味するには自分を離れなければならない。

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