嘘くさいといわれます

2011.12.26 曇時々雪

https://www.youtube.com/watch?v=AzYMw3EIr3k

今朝はケツメイシの”トモダチ”でスタート。トモダチがいない私。歌詞をうらやましく思い、年月の経つほどじわっとくるふしぎな曲。

寒い!! 今朝は久しぶりに寒くて目が覚めた。時計をみたら4:30すぎ。室温は11℃。どこなんだここは。今冬の寒い日、被災地がよぎる。厳しい寒さだろうなぁ。でも、その思いの襞には「比べる」がまぎれこんでいやしないかドキッとする。

衒いなく「被災地は辛いだろうね」と言える心構えはどこにある?って自分に問いかけて向き合う。それが自分にできることかなと思い始めた。

VitaCraftのフライパンで野菜を蒸す。サツマイモ、ニンジン、レンコン、パプリカ、ブロッコリー、エリンギなどなど。蒸している間、焦げてないかドキドキしながら待つ。蓋を開けて確かめたい。ガマンガマン。フライパンの音に耳を集中して頃合を見はからって蓋を開けたとき、立ち上る蒸気とジュウーの音が一気にお腹をぐぅとうならせる。

ちょっとしたことで脳の認識に変化が生じる。料理とお皿のペアは固定されやすい。この料理にはこのお皿、あの料理にはあの器。蒸した野菜をお皿に盛りつける。定番の皿にあらず。それだけでごはんの質感が変化する。日常から非のニュアンスがこめられる。認識が揺さぶられる「あの感覚」がおもしろい。

思い込みは自覚してはじめて「思い込み」が立ち現れる。身体を動かし認識をゆさぶって思い込みを自分に気づかせる。考えるより先に、道路でかがめば子供の目線が疑似体験できる。その瞬間、タバコのCMの意味を理解できる。背中を曲げて下を向いて歩けば街は障害物であふれている。

16:00すぎに出発。大阪駅で途中下車。本屋に立ち寄る。19:00からF先生と打ち合わせ。Tさんが参加。20:45に終了。その後、ふぐちりとひれ酒で一年の心の垢を落とす。

3人でほくほくしながらのふぐちりは、「自分のルールは破るためにある」価値でした。

自意識過剰の己を自覚して身体の芯から喜びを味わう。天の邪鬼の私へ「忘年会」と称して声をかければ断るかもしれない、だからさりげなく「ちょっとだけ軽くいきませんか?」と院長先生はお声をかけてくださったのでは、と認識している。

認識が間違っていても、そう受けとめて飲むひれ酒はとてもとても美味しかった。嬉しさをストレートに表現したらTさんはニヤッと笑って「ウソくさい」って盛り上げてくださった。嘘くさいって。ありがとう、Tさん(笑)

評価に対する私見が中途半端でした。「評価」は型版になったと思います。与えられた型版にしたがって他人の言動を記号化する。型版をつくるところからはじめられない。そんなのんびりしたことは言ってられない。とにかく評価しなければならない、って雰囲気が至る所にある。そういう雰囲気に違和感を持っています。点数をつけたり数値を算出する定量化の作業が評価だとラベルされている印象です。

事実を観察して様態を分析して「他者の視点」をありのまま提示する。観察と分析と視点の提示の作業が評価であり、評価によいわるいはないと考えています。過激かもしれませんが、評価するか、しないかしかありません。評価の俎上に載せられること、それ自体が大切だと感じます。「常に自分の土台を壊して漸進している人」は、評価の俎上に載せられます。さる先生がおっしゃる「バカの定義にあてはまる人」は評価の俎上に載せられません。

あら、こうやって書いているけれど、自分の意見がまったくまとまっていないのを自己認識しました。もっと考えて適確に伝えられるようにします。うん、確かに嘘くさい….. 🙁