うちで通用すればどこでも通用するかはゴミを拾う人

2012.01.06 晴れ

今朝は真心ブラザーズの”Everybody Singin’ Love song”でスタート。大事MANブラザーズバンドではありません。いまだにこんがらがっている私。歌えるってツライと想像するけれど、ホントにステキです。

二十四節気、小寒。太陽の黄経は285度。寒の入り。寒中見舞い。大寒へむけて寒さ厳しく。が、何度も取り上げているとおり、なぜ”ずれる”のか。冬至が終わって昼が長く夜が短くなっていっているのに。

第六十七候、芹乃栄。笠子を目にすると煮付けたらうまいよなぁと垂涎の的。鰤大根はあらだよねって思っていたら、切り身を積極的?!に販売しているのでオロオロする始末。

iCloudへ移行して不満がひとつ。Mailの設定が同期されない。iCloudのメールは同期できる。それ以外のアカウント設定はダメみたい。Gmail(Google Apps)アカウントが同期されない。あらぁ、まいったな。Mobile Meは同期していたのに。それをのぞけばますます怠惰なクラウドライフへどっぷり。

iPhoneやiPadをMacとクラウドで同期させると、ファイルマネジメントが向上する。シームレスな環境構築に手数がかからない。Macで作成したファイルをiPadで編集する、iPhoneで撮影した写真をMacで閲覧する、などなど。

Appleだから”よい”んじゃなくて、他からも提供されているプラットフォームを自分のワークスタイルに応じて運用するだけで、大切なのは「常時接続」のほうだと思う、が、あたまりまえすぎて落とし穴になっている。

スマートフォンは便利。ただ他のデバイスとシームレスに接続できなかったら、ファイルマネジメントが制約されてしまう。制約は「使いこなせない感」をもたらす。

11:00前に出発。13:00からF先生のミーティングに参加。みなさんの声だけ聴く。次に顔をみて声を聴く。視覚情報は声と内容に先入観を発生させやすいと再認識。あと「声」は対人関係の構築にかかせないだけでなく、「なくなったときに大切な存在であったと気づかされる」要素だな。15:00終了。

次の場所へ移動。60分弱歩く。

ノマドワークしてからM先生のミーティングに参加。19:00スタート、20:00すぎに終了。MさんとSさんを観察してお二人に必要な次のステップを抽出する。お二人の立ち居振る舞いはすばらしい。もっとも基本の所作を身につけられていらっしゃる。

「うちで通用すればどこでも通用する」という表現を鵜呑みしない。なぜなら、「うちで通用する」は特殊な環境であったりする。特殊な環境や特異な意思疎通は他の現場で適用できるとはかぎらない。

辺境ラジオのポッドキャストで、内田樹先生が学生を連れて橋本治先生のところへお邪魔したとき、「芸術活動をプロデュースしたり制作したりするときの心構えはなんでしょうか?」とたずねたら「もっとも優秀なプロデューサーっていうのは現場にはいってまずゴミを拾う人だ」と答えたって話を紹介していらっしゃった。

脚下照顧。

「うちで通用すればどこでも通用する」といわれて通用しない人はゴミを拾えない(あるいは拾わない)。ゴミを拾っても拾った行為を喧伝する。私はこれだけやっているのにあの人はやらない、のフレーズをかかえている。

マネジメントには役割がある。司令塔を演じなければならない人や後方支援を担当する人など。努力して役割を演じられる人はまかせられる。努力しないでも演じられる人もいる。そして、演じられない人がいる。さらになかには他責的になってしまう演じられない人。役割を担う以前、舞台にあがって演じる以前のフェーズに自分が立たなければならない情況を認識できない。

基本の所作を身につけられていない。その状態から知識をインプットする。せっかくインプットしたのにアウトプットのプレゼンが相手に嫌悪感を抱かせる。

人は「何を言ったか」よりも「誰が言ったかどのように言ったか」を五感で受けとめるし、よしんば「何を言ったか」の比率が向上しても「誰が何を言ったか」を入力している。「誰」の判定は、当人が発している「身体性」に依存している。

「基本」は普遍的に適用できなければ基本ではない。なのに自分たちの環境に応じた基本を「なかの人」たちは形成してしまう。それが基本であると伝承する。あたかも基本であると思い込む。

その思い込みの総体が集合体を死地へいざない導く。