diary

忠告してくれる人の大切を強く理解した

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2012.01.25 曇

孤立

M先生のWPを制作中。まずはテキスト流し込み。今回はルックスから制作しない。必要最小限のフレームワークを用意したらまずはテキストと図形の流し込み。それからルックスや細部の調整。いつもと逆のスタイル。たった1枚の写真がもたらすパワーを再認識。写真は検索順位に貢献してくれないが、1枚の写真はそれ自体が最高のコンテンツ。1枚でよい。なのにその1枚が難しい。

17:00からC社のH氏と河原町三条で打ち合わせ。食事しながらお話しを伺う。話題はウェブサイトにとどまらない。そして、H氏のお話しを伺って強く理解した。

自分のふるまいを指摘してくれる人はとても大切なんだ。

身も蓋もない話をできる人がひとりいたら贅沢だろうとつながっていく。強く理解した。身に染みるまで至っていない。なぜなら私は指摘してくれる大切な人と出会っていない。否、出会っているはず。でも、自分を「ニュートラル」にしなかった。他者からの指摘を受け入れない毒気を放出しているんだと認識した。

利己主義と自己中心主義は違うと思う。狭い観測範囲の感想だし学術用語の定義でもない。二つの単語を思いついて比較した結果の解釈にすぎない。

利己主義は他者の評価を認めるが自己中心主義は他者の評価を認めない。前者は他者からの指摘に耳を傾け、後者はそっぽを向く。

「えらそう」に見えるのは、外部評価と自己評価の差が大きいせいである。
「自分の能力は過小評価されているのではないか」という不安をもつ人間は、自分への敬意を喚起するために「わずかによけいな身ぶり」をする。
「えらそう」というのはその「わずかによけいな身ぶり」のことである。

アメリカの夢 (内田樹の研究室)

前者はえらそうでなくわずかによけいな身ぶりはしない。自分を慈しみ可愛がり己の立ち居振る舞いを洗練させていく。他者の忠言に耳を傾け取り入れる。自分のふるまいを補正する。より高い次元の所作を挑戦する。

自分のことを心から労っているなら他者の承認と自己の承認の折り合いをつける。自分の眺望点と視点はひとつ。十全に機能した想像力が複数の眺望点と視点を私にもたらしたとしても、その質量は他者に匹敵しない。

「外部評価が非常に低く、自己評価が異常に高い人間」のことを私たちの社会では一般に「バカ」と呼ぶからである。

アメリカの夢 (内田樹の研究室)

好きな言葉。自分を戒めるために頭の片隅に置いている言葉。

後者は「バカ」と呼ばれる。私はついついえらそうでわずかによけいな身ぶりをしている自分を認識する。そのたびに頭の片隅の言葉が「バカだよ」って教えてくれて凹。「えらそう」と常に認識できない。認識から漏れている「えらそう」があったと想像してより深く凹。

他者に「私を承認してほしい」と求める。なのに他者が私に求める「承認」へ関心を持てない。孤立する。孤独でない。誰も指摘してくれない。指摘してくれない、評価してもらえないから「自分への敬意を喚起するためにわずかによけいな身ぶり」をする。スパイラル。私が気に入った人にだけ喚起を促すから他人の目にはますます怪しげに映る。

折り合いは「相手から好かれよう」と思ったり「相手から嫌われたくない」とおもねったりする行為とは違う。また自己評価を低く見積もり謙虚を装うのでもない。

前者は好悪に影響されず好悪への興味がない。後者は好悪に影響され好悪へ心を寄せる(表現が二分思考で単純化しすぎたけど)。

心に残るフレーズ。「指摘したときに露骨に嫌な顔されたらこちらは指摘しようと思わない」

露骨はある種の素直かもしれない。そう解釈できても賛同しない。反対の立場なら私は嫌だ。指摘しようと思わない。嫌がられるとわかっているから沈黙する。

そう思っていても自分へ向けると、私の顔は統制できない「表情」を浮かべて相手からの大切な言葉を押し返している。露骨に嫌な顔をしていないと信じているが、わずかに現れる「表情」は沈黙のことばである。他者の身体と感性は沈黙のことばに反応する。

20:00に店を出て河岸をかえる。ステキなバーへご招待いただいた。おまかせのお酒をいただく。話は尽きず。気づけば22:00前。5時間近くしゃべりつづけた。尽きない。

とても寒い夜、冷えた身体は四条河原町でバスを待つ。心はぽかぽか。心地よくおだやかな夜。

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