diary

ういやつよのう

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2012.01.30 曇時々雪

Rihwaの”なぞれ”でスタート。Live行ってみたいなぁ。蜜と対バンやってもらえないかしらと朝っぱらから妄想モードフルスロットル。

“文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)” 京極 夏彦, “文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)” 京極 夏彦 ….あとはry。また読み始めた私は何をしたいのか私なのに私はわかんない。1,000ページの文庫本を持って何をしようか。握力のトレーニングでもしてるんかと問いかけたくなるわ。

冷蔵庫のなかに隠れておりよった豆腐の日付は1/23。一週間や二週間ごとき気にならん。あては我が嗅覚であるけれど、肉体へ与える影響より精神衛生上よろしくないと斟酌して八宝菜風とろみスープにぶちこんでハフハフして食す。ウマし。

冷凍してあったハタハタをずぼらかましてフライパンで焼く。クッキングペーパをひいてチリチリ焼いたら独特のニオイが鼻腔をヒクヒクさせ鰰がみりん干しみたいな色に。頭の”子”をかぶりつきウマし。

日常と非日常は断絶しておらず連続している。あたりまえであるが「非」や「不」によって二分された隙間から特別な意味を取り出そうとする。身体を動かすときの意識の時間が増えたら得心がいく。徒歩は小股でちょこちょこ歩かず、ちょい大股で歩く。「自動的な歩幅」よりやや広い「手動的な歩幅」でスライドさせて下半身を意識すると、下半身に心地よい倦怠感がやってくる。

徒歩は日常、大股歩きは非日常。わずかな意識(=非の感覚)を持ち込めば、日常と非日常が連続した営みであると認識できる。で、忘れる。ふたたび小股でちょこちょこ歩く。また意識する。やがてどうでもよくなって自然体が形成される。

歩いているとき、身体が左右のどちらかによろける。ふとした瞬間よろける。私の場合は右に傾く。大きく傾いたりよろけるではない。ふわり。(お)っととと、ってでもない。言葉にならない。

右側の筋力が弱いと推測する。素人の勝手な診断は危険である。人に迷惑をかけないから身体のバランスが悪いと独り合点ゆく。独りごちる。

では、「あの右側にふんわり傾く歩き方」を意識して医師の前でやれと言われたらできない。身体が勝手にやっておる。とは申せ身体が勝手にやっておるは科学的に適切な表現でないでしょう。

身体を動かすとは、あまり身体を動かしていないから身体を動かそうの非日常を言外に含んでいる。動かすと動かさないを二分しているあいだは気づかない。そこから離れてどうでもよい状態へ達したとき気づく。

つま先立ちで洗い物、腕に力を入れて布団の上げ下げ、中腰で掃除機を引きずり回し、手首をかえして風呂洗い、身体を動かすは生活の営みのなかに隠れている。意識は隠れている身体の動きを知覚へ引きずり出す。

そんな二分の所思を生活に持ち込んで慌てふためいている姿を、二分から離れて無の境地へ至った自然体が観察すれば、ういやつよのうと映るであろうか、あるいは、そもそも無は関心を持たないから無なんだろうか。

鰰を焼いている時につま先立ちするのを忘れた自分がくだらぬことを考えていたらやや焼きすぎた。

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