喝采

2012.02.01 曇

ウィスキーを飲みたくなったのでMiles Davisの”So What”でスタート。ベタすぎるだろ。思うがベタベタが好きになっていく。加齢とベタは相性がよいのか、単に堕落して創意工夫の意欲を失ったか。

寒い。それに尽きる。二日続けて04:00すぎに目が覚める。好調な覚醒ではない。寒いのだ。室内も寒い。しつこく書くが寒い。寒さは禿頭に情け容赦ない。パーカーを着てフードをすっぽりかぶってひもでしめて寝ようかしら。二度寝したくないので起きる。外気温は0℃。室内気温は11℃。

午前中、H氏の依頼を対応する。スマートフォンの調査。OSはAndroidであるけれど、今後のことを考えると悩ましい。安定のバージョンか将来を見据えた最新か。3時間みっちり調べて肩はゴリゴリ。頭はキンキン。知らなかった使用方法を勉強できてよかった。

そうか、そんな使い方があるのか、と気づく。前提が違うのだ。自分の前提を崩壊させなければ気づきは訪れない。前提と思い込みは違う、と思う。

前提を崩壊させるのはつらい。前提の崩壊は間違いを感じさせる。正解があると想定するから自分が間違ったと感じる。正解はない自覚と正解を求める行動が成立する。矛盾である。矛盾を了解して前提を構築できた私は安堵の湯水に浸かって心地よい。湯水からあがりたくない。寒い。

前提から導き出される結果を都合よく解釈する。ああすればこうなる。解釈の癖は前提を強固にする。壊れにくくなる。強固な前提は人為的過誤を犯す。前提の時間軸が短ければ観測範囲は狭い。まさか1,000年単位の前提が必要だったとはと想定外が訴える。脅威はいともたやすく前提を破壊した。

私の前提は間違っていないのに低所得者に甘んじているのはおかしい。ゆえに責任は外部にある。他罰的にふるまう。自分の責任ではない。「誰か」が悪い。誰かがつるし上げられる様を見物して一時的な快楽へ浸る。溜飲を下げる。誰かをつるし上げてくれる人へやんややんやの喝采をあびせる。

「自分のやるコトをやっている」から私の「外側」で起きたコトに対して私の責任にあらず。「自分のやるコトはやっている」は私の前提から導き出された言動である。外部が要請するコトへ応える言動ではない。

私がコツコツと築き上げる前提は恐ろしいなと思う。

F先生からメールを頂戴する。いっしょに読んでみたいとおっしゃってくださったので “岩波講座 哲学〈1〉いま“哲学する”ことへ” 岩波書店 を購入。楽しみ。

クックパッドで見つけた厚揚げのレシピがバツグンだった。じっくり焼いた厚揚げにはちみつとしょうゆと生姜のソースをかけるだけ。クックパッドがなかったときはどうしていたんだろう? と愚問に即答した。料理していなかった。無関心。都合のよい解釈。

Twitterがない、ブログがない、食べログない、Facebookがない、Google Mapsがない、検索がない生活を想像できなくなってきた。ない生活からある生活へ変わった。時間がこまかく切り刻まれる。

メールを廃止する企業や役割を見直す企業が現れる。SNSがメールの機能を果たし始めた。メールの本来の役割は、「相手の時間を奪わない」ことだと私は思う。Windows 95が発売されて、メールアドレスを持っている人がまだ少なかったとき、送信メールの数日後に返信メールを受信した。

GUIからメールを覚えた私ですらそうなんだからUNIXやDOSのCUIでメールしていた人は「メール」に対してなおいわんや、かと思う。

MSのメーラーに開封確認の仕様が導入されていると知ったのはいつだろう。覚えていない。が、狭い仲間内で笑っていたのは覚えている。なにをしたいのかちんぷんかんぷんだった。15年前、ちんぷんかんぷんだった様式がデフォルトの位置へ近づいている。開封確認のメールを送る人がいる一方で非常に重要な添付ファイルを暗号化せずに送受信している「現実」がある。

メールを書いている時間を換算してみよう。認知が変わったかも。「コンテンツ」のメールが、「メディア」のメールへ変わっている。何が書かれているかよりいつ送受信したか。

いつ送信していつ返信されたかが気になる。そういうものなんだろう。ただ、「時間」と「コミュニケーション」の「前提」が違うと了解する。前提はこわい。「前提」の意味を「定義」とはき違えている「前提」の私がこわい。屁理屈を書き続ける自分はさらにこわい、痛い。

風呂上がりのストレッチ。月・火としなかったから身体はキィキィ音を立てる。実際にキィキィ鳴ったら気持ち悪い。故意に錯覚して自分を奮い立たせる。