あんこトーストに細胞が歓喜

2012.02.07 雨のち曇

今朝はM.I.A. “PAPER PLANES”でスタート。痛烈な歌詞。スーパー・ボウルのハーフタイム・ショーでM.I.A.が中指をやらかちゃいました。そらね、M.I.A.を出演させること自体がやらかしているんだから、やらかすであろうって構えていたと思いますが、狙いだったのではと穿ってしまいます。ブラボー、M.I.A.

早朝は雨。お天道さまを拝めなかったが日の出がはやくなってきたと数日で実感。暦の力を体感。二十四節気や七十二候を知ったから体感するのであり、先人の花鳥風月をトレースしているからであろう。その意識が自己憐憫や自己韜晦と連結すると、暦の力を力説したい衝動が説教へ変容する。加齢は自分の地位を相対的に高めたくなり保守と連関して言葉が多くなる。自戒せねば。

今年にはいって朝食は米飯であったがトーストも数回食べた。ひさしぶりにトーストにあんこをぬってほおばると細胞は歓喜の雄叫びをあげる。あんこだ、あんこだ、あんこだ、あんこがやってきたぞ!!

無類のあんこ好きゆえあんこを食べるのを制限して食べないわけで、自己抑制しなければ毎日あんこを食べてしまいかねず、一度、あんこのお湯に浸かってみたいとも思い、無類ではないにしろ鳴門金時に目がなく、戦時中芋ばかり食べていらっしゃった方々は芋をもう食べたくないとおっしゃる苦々しい体験を伺いながら、鳴門金時とかぼちゃとあんこをいっしょに炊いたら全身が垂涎の膜で包まれたような錯覚に堕ちる。干しいもは飲み物です、と申し上げてよろしかろう。

無臭に近いうんこは相当律せられた食生活からもたらされるのではなかろうか。よく噛んだだけではかわるまい、と思う。多少変わったと思える回もあるが。対して臭いアリは簡単である。ファストフードの翌日だ。自意識過剰的に申し上げるとケミカル臭が発生する。かぎ分けられる高性能の嗅覚であるまいに。なのになぜかケミカルに臭う。

どうしてウンコやオナラやといった話題に反応してケタケタ笑ってしまうのかわからず、箍が外れるとまさに抱腹絶倒であり下手な腹筋運動よりも鍛えられていると確信に至る。他者曰く、お子様。たしかに子供のあの反応に妙な親近感を抱く。

「正論」は対話を拒絶する。なにが正論かは判定しかねる。あぐねるが、他者の意見を耳にしたとき、「正論」だと信じている印象を抱く。正論を構築した論理の過程を知らない。正論は自分で選択した結果を回収して責任を吟味する機会を持っていないのではと思える一方で、他者が選択した結果については責任を問い詰める。ということは他者からみたときの私の「正論」は(?)、と至る。

私が属している環境を私が批判するとき、その環境を形成したのは私であるという前提が含まれていない。環境が不全で個人の能力は順調であるとの論法より、環境は健全なのに個人の能力が不調だと認定する論法を耳目するほうが多かろう。耳目する私はといえば、環境と個人を切り離して「対象」として捉えている。なぜだろう?