diary

そら吐いてない唾はのみこめるわな

Leave a comment

2012.02.15 薄曇り

今朝はSuperfly “愛をこめて花束を”でスタート。乱れ気味のときはこの歌詞を聴いて落ち着きをとりもどす。前向きとか後ろ向きはFuckなんだがとりあえずどこでもいいから歩いて行かなくちゃね。

アルバイトの資料が到着したのでとりかかる。週末はタイトなスケジュールなんで金曜日の早朝までに仕上げたい。難しいけれど睡眠時間を削ればなんとかなるでしょう。

20代のころ毒舌の吐き方がわからず愚痴ばかりこぼしていた。なんとか毒舌を吐けるようになりたいと思って努力してみたが、30代へ突入してなんだかいつまでたっても毒よりも愚痴の闇に棲んでいるなぁと認識した。それでもあきらめずにいたらだんだん穏やかになってきて静謐に引き寄せられ、端正な身のこなしで痛烈な毒を吐けるようなりたいと願って40代に突入した。さて毒を養えるかしら。

自分なりに整理してみると、愚痴はどうにもならないコトに対して実行されてくだをまく。が、振り返ってみると、そもどうにもならないコトとどうにかなるコトを峻別できていない。どうして峻別できないかと掘り下げたら循環が居座っている。峻別しようとしない。峻別できない、ではなく、しない。だとしたらつぎはどうして「しない」かの穴を掘り下げなければならない。それは「気がない」で処理しちゃいけないと反省した。

毒はどうにかなるコトへ注入する勢いみたいなイメージを持っていて、毒は背中をバーンとたたいて固まっている身体を地から引き離してくれる。

毒を吐くには時機を見計らい、文脈を推し測り、言葉を選び、最後は最適な文字数にまとめて対象へ送信する。想像するに、高度な伝達技術が求められる行為だろう。だって、本人は毒を吐いて場をデザインしているつもりでも、受信者は厭味を言われてたたきのめされているかもしれないわけで。固まった身体を地面から引き離すどころから、ますます根っこをはやして固めてしまう道具にもなる。

米国のドラマはダジャレに対して寛容というか、笑おうか笑わないは相手が決めたらよいような雰囲気なのに対して(事情を知らないからこちらが勝手にそう視ているだけだろうけど)、日本のおっさんが冗談を言ったとき、「父権的」や「封建的」が自動発動された乾いた笑いを強制する。あれはなんだろうか、と思う。

毒を吐く行為も似ていて、本人が毒を送信しているようで、じつは「権力」を送信しているかもしれない、とふと思う。自分の場合、若い頃は「禿頭」をしゃれに使っても厭味なく笑いをとれていたと思う、勝手にそう思う、否、そう思いたい。

でも、四十こえてそれをやったらいかんだろうと思う。たぶん「無言の圧力」と同じであろう。あれはキツイ。禿の前でかぶりやがってと私はいつも思うのだが、無言で「あなたもどうですか?」の圧をかけられているようだ。さすがに「私は禿頭をかぶっているのですよ、実は。これとったらなかはフサフサです」との冗談もとばせない。

帽子屋さんに行って、帽子をかぶろうとして、自分のかぶっている帽子をとったときのスタッフさんの「微震」がかわいくてしょうがないわけだが、相手の気持ちを被害妄想するとつらいだろうなぁと自意識過剰に陥ったりする。

そうか、これが毒ではなく愚痴であり、このエントリー自体が知っている人には「無言の圧力」であると自己認識した。

It\'s only fair to share...Tweet about this on Twitter
Twitter
Share on Tumblr
Tumblr
Pin on Pinterest
Pinterest
Share on Facebook
Facebook

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。