diary

第九番

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2012.02.22 晴れのち曇から雨

今朝はひいらぎ “今、このとき。” でスタート。若い、とはそれだけで特権だなぁと失いつつある私は思います。衒いなくストレートに放擲できる感情はすばらしいです。そのすばらしい放物線をかき消すのはいつのときも「かたく」なった人々。

早朝、祖父母の宅から引き上げてきたCDを聴く。

祖父母の宅にあったクラシックのCDに目が回った。こ、これを全部整理するのか…..。引っ越し先では聴かないから置いていった。持って帰っていいよ、と言われたのでまずは数枚だけもらってきた。といってもクラシックを聴く習慣はない。なにを選べばよいか。見当がつけられなかった。

とりあえずモーツアルトとベートーヴェンをもらった。ベートーヴェンだけでもわけがわからんほどの枚数がある。曲名?!を見たところでさっぱり。”第九番”と記された朝比奈隆氏の大阪フィルハーモニー交響楽団の全集をかばんに入れた。ベタであってもそれぐらいしか知らん。

で、第九番を聴く。

“あの”歓喜の節はどこなんってわずかにイラっとしながらヘッドホンに集中する。”あの”年末恒例が やってきた。刹那、目頭が熱くなった。なぜかわからない。第九番が涙腺をゆるめたわけじゃない、と思う。祖父はこういうのを聴いてるのかとよぎった。

CDを整理して処分する。家族はそう決めた。が、それはいけないかもと思い始めた。かといってあれだけの枚数を引き取れない。祖父が心血注いで金銭を投じて収集した「物語」があった。第九番を聴きながらそう感じた。収集を目の当たりにしていないから各人が収集の痕跡を胸のうちに収納して好きな時に頭のなかで「物語」を想像すればよいと思う。

片方でそれでよいと思いつつ片方で「装置」がないと物語を想像できないかもしれないと反論する。その装置がCDである、と。唯物信仰か。否、物に執着していないと抗う。しかし、装置のない物語の再生は喪失感が忍び込む。そういうためらいが物を捨てさせないのか。声だけを思い出すより写真があれば声を思い出せる情感が増幅する。

午前中に決算書と確定申告書を作成したので午後から税務署へ。歩いて向かう。約30分後、税務署の近辺がひっそりしているのでおかしいと思ったら看板に移転のお知らせ。ええぇ。移転場所を確認して引き返す。JR大津駅の方面へ。提出完了。申告の相談に多数の列。

往復の最中、25日以降「衆院の一票の格差」が違憲状態になるという報道を思い出す。意味がわからない。読んでも理解できない。違憲を理解しただけである。私にとっては些末である。違憲状態に陥っても即日私の周辺に異変が生じないだろう。極めて短期的狭窄的視野である。長期的巨視的視野に立てるならば深刻なのでしょう。

なにかに似ている。あっ、そうか、パンのシールを剥がして持って帰る現象だ。パンを購入せずにシールだけ万引きする人がいるらしい。だから製造会社はシールではなく袋に印字するようになった。袋から切り取るという「一手間」が加わった。違憲とパン祭りのシールの構造が似ているな、私のなかでは。パンのシールも私には些末な現象である。そんなこと知らなかった。

一般人が写真をネットにアップロードして、写真を見た一般人が端っこの車のフロントガラスに反射された映像から自宅付近を突き止められる環境である。知らず知らずそういう環境がつくられているなかでソーシャルネットワーキングサービスの囲いがあれば写真をアップロードする。不思議なことだが、個人情報を公開するほどに、安全性は高まる(バリ島すちゃらか日記 (内田樹の研究室)) という意見に賛成である。そう思うが非公開へ傾いている。

綻び壊れていく現象とはもっとも「遠い」ところから始まり、認識したときにはもっとも近い自分の身に降りかかるのかなぁと感じながら歩いていたらまた車にひかれそうになった。ドライバの方、すみませんでした。

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