Facebookやmixiがない生活にもどれますか?

2012.02.25 雨のち曇

https://www.youtube.com/watch?v=LFW_i_uvzZw

本日はGODIEGOのビューティフル・ネームでスタート。はじめて聴いたのいつだろ。小学6年生から中学生ぐらいにかけてだったと思う。衝撃でした。日本語なのに外国人が歌っているような感覚。ちょうどこのころからおじさんの部屋へ入り浸りビートルズやフォークのアルバムをステレオセットで聴き始めた。

第五候、霞始靆。三寒四温? すこしはやいような、そんな日々。からりと晴れた日は少ない。比叡山は霞む。菜の花は苦手だが芥子和えだと食べられる。美味い。

心身のバランスを制御しづらく苦心。これから先が「見えた」ら駄目なんだと言い聞かせ穏やかに過ごせる「空白」を探し求める。

GO GUY! に掲載されたご近所のパン屋へ。昨年の秋(だったかな…..)に開業されたらしい。知らなかった。散歩ルートなのにね。路地に入るので気づかず。焼きたての時間をブログで告知していらっしゃるので時間にあわせて行くつもりが、ぐずぐずしてしまい40分遅れで着。あるかな、とソワソワしながら店内を覗くと大丈夫だった。全部で840円なり。どれも美味い。

電車に乗る機会が増えた。車内を見回すとスマートフォンの比率が増えた実感。私はスマートフォンに食指が動かないので仕事でどうしても必要になるまで買わない。スマートフォンのUIは洗練されている。UXはリッチになった。視覚的に「つながっている」感は強化されている。さらにアプリが環境を劇的に変えている。

環境の変化が確実に起きている。“文藝春秋 2012年 03月号 [雑誌]” 文藝春秋 の『日本の自殺』が実現している実感。論文のタイトルは悲観的である。内容はさらに悲観的で悲壮感が漂っている。私はそのとおりだなぁと賛成している。が、悲観していない。楽観的だ。

ただエコロジカルニッチの差異が拡大していきそうだから、マイナの隙間が減っていきそうで生息しづらくなるかもしれないなと感じる。スマートフォンによって「常時接続」された「間接経験」の共有は、脳内を刺激して幻想を強化するだろう。幻想の強化は、メールの返信頻度やSNSのタイムラインを意識の片隅にストックする。スマートフォン内のレスポンスの有無に意識の片隅は焦りや悲しみ、怒りを作動させる。ストレスを生む。

アイロニカルな現象だなって自己認識する。TwitterのTLを読んでデマに右往左往している私、RSSの情報を検証せずに鵜呑みする自分。情報の伝達速度が向上して情報の拡散面積が広がるにしたがって、本来ならば「情報リテラシー」を標榜して生活の質の向上に役立てようとしているのにイライラしてアタフタ。

むしろ直接経験を規範に生活している方々の肝は据わっている。動ぜず。TwitterやFacebookをやらない、週刊誌の表紙を見ない、新聞を読まない、情報番組を視ない方々のほうがメジャの阿鼻叫喚に身を投じずにすむ。そんな「逆リテラシー状態」が起きているかもしれない。