diary

六境

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2012.03.06 雨のち曇時々晴れ間

今朝は andymori – Weapons of mass destruction でスタート。ギター?!かな、たぶんこういう音とリズムが好きなんだと思う。ヘッドフォンで聴くと突き刺さってくる。音だよなぁ。

二十四節気、啓蟄。太陽の黄経は345度。冬の残り物を洗い流すかのように雨が降る。第七候、蟄虫啓戸。鰆をみかける。うまそうだ。酒、醤油、みりんで漬けてから焼いた香りを想像して鼻腔がつんとなる。新鮮なわかめをさっと湯がくだけで食べてもうまい季節。

終日、F先生のファイル制作。先週から議論がはじまったシステムについてタスクとディスカッションを整理。ワークフローの作成。概念図の作成など。

どうも花粉症を患っていそうな気配。昨年あたりから気になっていた。今朝、目がややしばしばしてくしゃみが数回でた。いやな気配。閑散期を推し測ってアレルギーを検査してもらおうかしら。以前、なにかの症状で診てもらったとき、秋にも花粉があって反応しているかもしれないですよ、と指摘された。毎年秋頃に軽い頭痛が続く。頭が重い、ぼぉっとする。いよいよ春もか。

梅の木を見物に近所を散歩するがまだである。気がはやいか。六根と六境が十全に機能している日は少ない。一つが強ければ一つは弱い。案外、それで機能の均衡を保っているのかもしれない。機能不全はサバンナやアマゾンであれば危険をもたらすかもしれないけれど、日本では鈍感になったほうが得策かもしれないと思うシーンがしばしば。

Facebookは30年後の同窓会である、とは言い得て妙で納得した。リア充であるから盛り上げられるタイムライン、盛り上がるタイムライン。たしかに自分が50歳になったときに無職であったら行きにくい。さもしい自分を気恥ずかしく思うだろう。

ネットで交錯する想いや願いや妬みを拾い集めると、自分が死ぬことや自分が運よく老いることをうっかり忘れているんじゃないだろうかと感じる。

母親が発話する認知症の響き。それが変わった。そう勝手に受けとめる。自分の父親の姿を見て「対象」でなくなったのだろう。なにかを引き受けたのかな。私も祖父の姿を見て対象でなくなった。見て以来、認知症という言葉のニュアンスは書き換えられた。認知症への距離が縮まった。同時に自分の想像力の貧しさを認識できた。

他人の想像力は知らない。自分の想像力を分析する。描写が粗いまことにすぐれた想像力とはものすごくわずかなとるにたりない動きを心象できるかだと思う。感知していないと錯覚していた微細な「動作」を視覚は入力しているのではないかな。そんな微弱な信号が心身に生じる機能に変化を与えているように思う。イライラしたりウキウキしたり。はっきりと見えるような動きにイライラしたりウキウキするより、なんだかよくわからない残像が心身に作用している。

私の想像力は、徒歩を描けても歩くを描かない。食事を描けても食べるまで描いていない。目を付ける、という。どこに目を付けるか、腕の動きに目を付けても、その先にある手の、さらに先にある指に目を付けていない。

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