KAO

2012.03.07 晴れ

昨日の続き。F先生のシステムに必要な資料作成の準備。文字情報を視覚化して使い勝手がよいドキュメントにまとめたい。それにはドキュメントのフォーマットが鍵。手順・内容・連係の俯瞰に対する耐性が高いフォーマットを練らないとね。

16:00すぎに京都へ出発。京都駅下車。目的地まで徒歩。約30分。途中、5分だけHDDとメモリの価格をチェック。2TBのHDDが4本欲しいけど買い時でないなぁ。メモリも8GB×2の16GBがほしいところ。ふーむ。

17:00からM先生と打ち合わせ。ウェブサイト・パンフレット・コンテンツについて。議論のテーマを設定できたが論点を定めにくかった。さしずめ構図が決まらない感じかな。だからピントをあわせられない。実現不可能も含めた空想からアプローチしてドメインを定めていきそのなかからポイントを探し出す方法やピンポイントを徹底的に検証する方法がある。フレーム問題。

18:30から移動してお食事へ。お食事のあと河原町五条へ河岸を移してシングルモルトを嗜む。先生にごちそうになってばかりで恐縮だけど、おっしゃっていただいたようにアイデアを絞り出してお返ししたい。

個性は他者評価だと僕は想定している。自己評価に個性をカウントしない。個性の定義を想像しにくい。ひょっとしてこれも共同幻想の一種かもしれない。時代の趨勢が個性の定義を書き換えているだろうし、現象や事象や物質に対して個性であると賛同する人々の言動、それ自体が個別性に富んでいる。

ただ個性であると賛同される「何か」は、たいてい共通の「構造」を持っている。そこがおもしろい。個別性に富んでいる「大勢」が評価した個性的なお店を見ると、他のお店でも同じ構造を採用している。前者は個性で後者は没個性。両者の差異は構造の表現であり、前者が巧みに表現しているから個性的と評価され、後者の表現が下手だから没個性的と認識される。

どなたかが指摘していたように自分の部屋の壁にうんこを塗りたくる人が「個性」であるかもしれない。そういう行為を「大勢」は個性と評価しない。

矛盾しているのを承知で感じる。大勢が個性と評価する対象は受け入れられやすい環境になった。反面、少数が個性と評価する対象は受け入れられにくくなっていると思う。後者は個性より特異または怪異として感受され、奇異の感を抱かれる。後者の評価を見直す機運は喫茶店や飲食店などで見受けられる。観光地は仕掛けたりしている。「仕掛け」がうまくいった現象はレトロやアンティークや温故知新と評され耳目を集める。

そんなことが頭に浮かぶ。そして「個性」とは異なる位相で「続ける」と個性の連関に関心が移っていく。はたして連関しているんだろうか。