diary

pray-grace

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2012.03.08 曇

RHYMESTER – POP LIFEでスタート。昔で言うならレコードがすり切れるぐらいCDを聴いているアルバム。そのなかでいちばん大好きなナンバ。最高だ。最高だ、がチープな称賛へ化けるほど最高だ。

夕食前の祈りが習慣になった。祈りは自慰であり自己満足の塊であると理解した。少なくとも自分には。他人の祈りを知らない。はじめのころは被災地の人に祈っていたのが、いまは祈りが定型化している。最初に被災地、次に警察、自衛隊、そして最後に原発の現場の方々。この四つ。

ある精神科医の先生はポッドキャストで祈りのちからを軽んじていけない、とおっしゃっていたが、そのとおりだと賛成する人はいらっしゃるだろう。私はそう思わない。祈りで何も変わらない。一年経過してほんのわずかに歩み出したのは現地の方々とそれらを支援する人々の実践であり、私が祈ったからでない(あたりまえの話)。

なのになぜ祈り続けるの、と思う。消極的な習慣になった祈りはいつしか欧米のgraceのような定型化されて呪文を唱えている。そして彼女への祈りは、被災地や現場の方々への祈りと質感があきらかに違う。でも祈りのなかに組み込んで顔と声を心象する。

よくわからない。わからないから祈っているのか、祈っているからわからないのか、もわからず、毎日(ではないけれど)淡々と入力された行動を出力している。ここに道具や自作の詞が加えられた儀式へと変容するのかと思う。

わからなりになんとか理解できたのが自慰であり自己満足の塊だったということ。何もしない自分を慰めたい。何もしない自分が「外部」から切り離されるのが怖くて接続していたい。そして祈りによって接続できたと自分を満足させる。その利己主義の欲望の最大で最強の塊が祈りなんだといまは感じている。

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