それ、思考の受け売り?

2012.05.01 曇

http://www.youtube.com/watch?v=djjG0pcAZeo

第十八候、牡丹華。季節は晩春。本邦では牡丹より菊や葵のほうが馴染みが深いか。3つは権威の象徴であり紋章として使われる。日が長くなった実感。日永と遅日。

鉢植えのオダマキが越年して花を咲かせた。昨年の花の色を写真におさめていないが、どうも色が濃くなったような気がする。以前にも書いた紫陽花を思い出した。母に贈った紫陽花が、次の年に花を咲かせたところ、花の色が昨年と違っていた。それも「かなり」違っていたらしく、母にいわせると、まったく別の色だったとか。そんなことあるのか。紫陽花で起こるならオダマキにもある得るか?

鉢植えを3種類買ってきたので植える。なるべく多年草を選ぶ。一年草でも越年する植物がある。名前を覚えていない植物が越年して花を咲かせたので驚いた。逡巡したが、ふたたび成長するのを祈っていまのうちにかりこんだ。どうなるか。もし失敗したら殺してしまったな。

報道を読む。運転手の状態や会社の管理状況を問う声。国の制度や法律の不備を指摘する声。追求のニュアンスがこもっていそうだ。それにひきかえ、自動車と道路の技術を問いかける声が少ない。読んでいるボリュームが少ないのでそう感じるだけだろう。ネットでは見かける。

ネットで道路設計の不備と技術の欠点を指摘する解説を読んだ。納得した。専門家による親切な解説に感謝。不毛な表現を使って書くと、大手の報道への印象は、「状態」「管理」「制度」「法律」といった文系的な視点。理系的な視点から問題を設定してほしい。文系・理系って書いているだけで気持ち悪いけど。

今回のような出来事は起こる度に騒がれる。月日が流れて忘れられる。そしてまた起こる。そんなことをくり返している。自転車が凶器である点が強調されるようになってきたが、自動車が凶器である広告は、煙草のようには見かけない。経済と雇用に与える影響が甚大だからかな。

11:00すぎに出発。大阪へ。電車のなかで200年後の風景を想像する。100階程度の高層マンションを大阪・京都・神戸・草津などの主要な各駅ごとに数十〜数百建設して人を住まわせる。それ以外の土地は耕作地や工場や産業地にしたら、どんな街を設計できるだろうか。移動の効率を限界まで高める。その高層マンションが「地域」である。行政や病院などの社会資本のインフラは整備されている。居住空間と産業空間と自然空間の3つに仕切る。もちろん、「資本主義」や「私有地」「○○主義」などはまったく考慮にいれていないので妄想だ。

地域や絆などの単語に食傷気味。震災に託けた言説を目にすると、僕にはフィクションに思える。それも荒唐無稽に等しいフィクション。それらすべての言説をフィクションだって感じないけれど、、震災を出汁にして自分の思考を出力したいのだろうか。さらにそれらの言説を買い受けて卸売りしていそうな人もいらっしゃるから、行動の総量より言葉の総量が上回っている。それならば檻のなかで地域をつくって絆を確かめあえるような日常を設計したらよいと着想して妄想した。

13:30からF先生のミーティングに参加。15:00に終了。終了後、PCのネットワークを調整してメールを送受信できるようにして、他PCの微調整。