免罪符

2012.05.14 曇

今朝は Clairy Browne & The Bangin’ Rackettes – Love Letter でスタート。ど真ん中。超の10乗お気に入り。Amy Winehouse亡き後、もっとも期待しています。05/16に“ベイビー・コウト・ザ・バス” クレアリー・ブラウン&ザ・バンギン・ラケッツ が発売される。マストバイ。

第二十一候、竹笋生。なぜゆえいまたけのこしょうず、かを調べてみるのもおもしろい。私たちはまだ何もしらない、ことを教えるのが21世紀の科学だ、という言葉にふれたが、日常の生活のいたるところにころがっている。日本で獲れる唯一の鰺がそろろそか。刺身で食べたい。

ミクシィ、身売りを検討:日経ビジネスオンライン が報じられて、間髪入れずプレスリリースで否定された。仮定の一部として検討に入ったとしていても、まさか「本当です」とは認めないから否定に意味はない。いまごろ関係者各位、どこからリークしたかと色めきだっているか、あるいはインサイダにてんやわんやか。

mixiのユーザー数と「アクティブ」ユーザー数推移をグラフ化してみる(2012年3月分対応版)(Garbagenews.com) – livedoor ニュース にあるとおり、過疎化がすすんでいる。月に1回もアクセスしていないユーザが44%増加とのこと。もう止められないだろう。10年続いた。

Facebookに移行した人は多いし、新規の人もFacebookを利用しているだろう。じゃぁ、FBはどうなる? なんて予測は専門家にまかせて自分は物見遊山。仕事でFBを知っておかないといけないから参加してアクティブ化しているけれど、いまの仕事を引き払ったら、アカウントを残して消えるだろうなぁと思う。

mixiやFBなどの閉じられた空間がやっぱり苦手だ。フィードから流れてくる「ポジティブ感」にシンクロできない。僕の目にはどうしても奇妙に映ってしまう。だからプライベートなアクティブを流さない。極力控えている。ビジネス情報を流すか、自分の思考の断片としてロギングするために利用している。

どうして苦手かを自己認識している。わざわざここに身も蓋もない毒舌を書いて他者を苛立たせる必要はない。自分のそういったネガティブでネクラな要素をきちんと理解しておけばよいと思う。他者へ発散しなくてもよい。

夕食、鶏のもも肉とむね肉のミンチを練り合わせる。牛蒡と人参といっしょに。下味をつけてフライパンで焼く。成形。ハンバーグ。タレは酢醤油に芥子。自画自賛のデキ。うれしかった。明日のお昼も同じものを食べるので二度のお楽しみ。

「ちゃんと」できる人なんていないを読む。すごく参考になった。FBのフィードに流した。文学的な表現や曖昧な言い方、一見指示しているようで実は具体的な中身がない指示などが浮かんでくる。「適切」「正しく」「適当」「きちんと」などなど、それらは言葉だけで解決するために使われる便利な単語である。

自分がちゃんとできていることだけに焦点をあてる。「私はちゃんとやっている」と言う。ところが他者はちゃんとやっていないと観察しているかもしれない。あるいは、それはできていても他はできていないじゃないか、と評価していることもあるだろう。

要は自分がてきているコトだけ自己評価して、自分ができていないコトに対して自己評価しない。評価しないどころか、査定項目にもリストされていない。まるで認識から欠落しているかのようだ。

自分ができてているコトだけを自己評価しているときの口調は他者を責めている。自覚していない。まくしたてるわけではない。注意しているつもりなんだろう。私はやっているけれどあなたはやっていない、と。注意や説諭に使う単語の選択が幼稚である。幼稚だから人をひどく傷つける。あるいは人の感情を損ねている。が、悪気はない。一生懸命なんだ。

初心者だから何を尋ねても許されるだろうか。自分が行為の対象になったとき、自分が不愉快な思いをするのに、同定の行為を相手に対して作用している。それに気付かない。無料相談を受け付けていない弁護士が、経営コンサルタントに経営のことを根掘り葉掘り聞いて相談する(もちろん無料で)みたいな皮肉に満ちた構図。そんな構造を認識する力をどのように自己修養していけばよいか、と悩む。