無礼無愛想無骨

2012.05.15 雨

今朝は Incognito – Collibri(live) でスタート。仕事中のBGM。CDは6枚。iTunesでそろえようかしらと悩むも優先順位は低い。家からCDがどんどんなくなっていく。あと少しだけ思い切れたら全部処分できるだろう。感情移入しているジャケットはやっぱり処分しづらい。ジャケットも含めて全体がコンテンツか、あるいは「中身」だけがコンテンツかは各人の感覚かな。目下、前者と後者を右往左往してる。

Google AdWordsを使って歯科衛生士を求人してみるなんて5年前なら思いつかなかった。当時からやっている人はいたと思う。想像をもっと機能させないとマズイ。どうも枠にはまってしまっている。

AdWordsを使ってDropboxの容量を増やす方法が紹介されていた。それを読んだとき、おもしろいことを思いつくなぁって感じた。「広告」のツールを水平思考させてアイデアを出すってスゴイ。

歯科医院の待合室や空間も、なにげなく眺めている。あの風景に慣れてしまっている。もっと疑っていけばありえない理路からユニークなアイデアが浮かぶはず。それをやってみたら「こんなコンテンツを待っていた」って患者から声があがりそう。F先生からある広告営業のパンフレットを見せてもらって、それについて話しているとき、コンテンツがいくつか浮かんだ。

16:00すぎに出発。大阪駅で途中下車。本屋へ。“状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加” 産業図書 の序文を読んで即購入を決めた。発表された当時、斬新な論文だったのではと思う。学習を命題的知識の獲得と定義するのではなく、学習を特定のタイプの社会的共同参加という状況の中においている(同P.7)。この参加の様態を「正統的周辺参加」という術語に変換して定義を説明している。これがユニークだと思った。

「人と人」との関係から学習を捉えるだけでなく、「環境と状況の構造」から捉え直してみてはと僕は考えている。徒弟制やマンツーマンの学習を否定しない。「人と人」の関係だけに依存してしまうリスクを想定したい。関係に依存してしまうと、ある特定の人が関係から交替すると、獲得した知識の再構成を余儀なくされかねない。そうなると持続的な学習を体得できなくなる。

学習の断絶は、獲得した実践的知識を抽象的な単語の寄せ集めに変えてしまう。実践で使えない。

特定の集団内にいる人々や情報構造が非対称的な関係(たとえば専門家と素人)の中にいる人々からお話しを伺い、我が身を投じて体験したとき、学習の機能が人と人の関係に依存したら、学習を続けられなくなる、と感じた。特定の集団で通用する学習だと、自分が別の集団に移動したとき、共同体の構造が変わったとき、学習の連続性が寸断されてしまう。

まずは本書の理論を理解しなければならない。それから自分の仮説と理論の相違を検証しよう。

19:30からF先生のミーティングに参加。21:30に終了。

近ごろ不条理なコンテンツにアクセスしすぎかなぁ、ちょっとキツイ。