ほしがりませんがまたやってくる

2012.05.21 晴れ

今朝は Bibio – The Ephemeral Bluebell でスタート。Stephen Wilkinsonによる懐かしい音に聞こえるし、テクノサウンドでも楽しめる。ヘッドホンで多彩な音を聴きながら、朝日を眺めたくなるようなナンバ。Bibioもマイフェイバリットナンバ。

M先生のページ作りに四苦八苦していながらF先生の資料作りに悪銭苦闘。テキストを入力してはdeleteボタンを押す。マウスを動かして図を描いてはcommand+zを押す。

二十四節気、小満。稜線の濃度が高くなる。躍動がはじまる。第二十二候、蚕起食桑。旬は岩魚らしい。釣りをするなら海か山か。どちらもやる人はいらっしゃるだろうけど、僕は山だと思う。静寂のなかでやってみたい。五月は雨も多い。そろそろ梅雨の走りか。荒れた天候があり、たくさんの出来事があったのち、それらは「全体」の記憶の片隅に追いやられつつある。その記憶が取り出されるのはいつごろか。年末か。残酷と不条理は日常生活と隣りあわせ。残酷と不条理に向き合い続けるより忘れるほうにリソースを消費する。そうしないと膨大な情報を処理できない。

14:00に出発して京都駅へ。C社のH氏と打ち合わせ。ウェブサイトからコンタクトを増やしたい。特殊な業種だから厳しい。承知している。が、なんとかしたい。手探りが続く。情報だ。情報は、文字・音声・音・絵・図・表・写真・映像・数式などの形式を使って表現する。表現方法を組み合わせて適当なペルソナに情報を届けなければならない。17:00前に終了。

フィードから流れてくるテキストを読んでいると、戦中のメディアは今のような状態だったのかなぁと想像する。ほしがりません何チャラってフレーズが頭に浮かんだ。こわい。手段である節電が、カルト集団のドグマに見える。同調圧力のアイコンだ。村八分。新聞社は、両サイドの「主義者」を刺激するテーマを書くとき、「有識者」に代弁させている。その有識者も、両サイドのどちらかに所属していそうだ。発言の機会が与えられているから持論を存分に展開する。これで新聞社は署名記事を書かなくてすむ。

TwitterのTLでは、科学・技術・法治・政治の視点から冷静な議論が積み重ねられている。中には感情的なツイートもあるが、議論を構成する母集団が大きくなれば一定の比率で発生する。感情的なツイートは読めるが、発狂しているつぶやきはスルーしている。ただ140字の制限があるから緻密な議論は難しいし継続は期待できない。断片的な議論でもありがたい。巨視的と微視的の意見を拾い集めて自分の思考の種に組み合わせる。

TwitterのTLを眺めていると、「あっ、この人の感性ってステキだなぁ」って感じる瞬間がある。どういうときか? 単語の選択力にふれたとき。TLに流す単語の選択が最適化されている。

相手が専門家でないと憶測したら、タームを平易な単語に置き換える。全部置き換えられない。可能なかぎり置換している。修辞や類比を使ってかみくだいて意見を述べていらっしゃる。

他方、相手を専門家と識別したら、タームを駆使して140字の制限を縦横無尽に駆け抜ける。正直、140字のテキストを読んでも、僕にはわからないが、会話が成立しているぐらいは判定できる。その丁々発止のやりとりがうらやましい。おもしろい。ステキだ。

だから、これとは反対の人、ちりばめられた覚え立てホヤホヤのタームや知識の卸売りに遭遇すると、僕は文字アクセス機能を低下させる。そういう人の匂いをかぎ分けやすい。なぜなら一昔前の自分だからだ。昔の自分と出会った奇妙な感覚が起動する。

非科学的なあやしいことを書くと、自分の意見を自分の理路で出力する人の語感は、痕跡を含んでいる(ような気がする)。痕跡は見えない。見えないから聞いている僕の頭のなかで想像が膨らんでいく。想像を膨らませてくれるから、欲望のスイッチがオンになる。この人が探究している「先」を僕も味わってみたい、とソワソワさせる。居ても立っても居られない。

そういう人とこれからも出会いたい、とワクワクしている。