経験に軽く中指を突き立てる

2012.06.04 曇

今朝は Esperanza Spalding – Radio Song でスタート。“Radio Music Society” Esperanza Spalding を購入してパワーローテ中。

週末に資料が届く。アルバイトの入力作業。何も考えず作業できるのに頭は別のことをしたがる。入力作業や文章作成は苦にならない。性格は関係しているか否か、知らない。自己分析によると、入力系やルーティンワークとの相性はよく、クリエイティブ系との相性は芳しくない。

06/02(土)、枕の保守・点検のためにイオンモール草津へ行く。物は試しに浜大津からバスに乗った。お年寄りの気持ちをわずかに理解できた。便利だ。そして不便だ。身ひとつを勝手に運んでくれる。けれどバスの本数は少ない。1時間に1本もない。

エコというなら車に乗るなってロジックは乱暴だし、そのロジックをふりかざしながら多様性をシュプレヒコールする非論理的な態度になるべくタッチしたくない。

願わくば、バスの本数がもう少し増えてほしい。バスをコンパクトにして増便できないかしらと素人考えが浮かぶも諸経費は大差ないかもな。根本は利用者数でしょう。

最後の言葉に思いを巡らせる。“最後だとわかっていたなら” ノーマ コーネット マレック を繰り返し読んで英語を学習している。最後が準備されているなら精神を集中して言葉を選ぶ。だけど、用意周到な最後は少ない。最後の言葉はいまここに立っている人へ解なき試練を与える。最後の言葉といっしょに表現するのは何か。笑い、嘆き、怒り、様々。それらが何であるかが、いまここにたっている人にとって大切なんだ。

別れは肉体だけにあらず、精神もあるかもしれない。その気になって探せば探せない人はいないと思う。だけど、「その気になって」まで探すかと問われたらよほどであろう。「その気になって」まで探したい人を精神に付着させる。

朝、出勤して、いつものように会えると思っていたら、もう別の場所にいて、しばらく会えない。そんな別れがある。最後の言葉に近い質感が、去った人と残された人の両方を包み込むだろう。どんな会話をかわし、いかなる表情が互いの記憶に刻まれたか。

もしバクテリアが私の肉体をすべて分解して白骨の屍にしてくれたとき、その時、誰といつどんな言葉を交わしたのが私にとって最後の言葉であったか、と想像してみる。時制が混信して複雑な感情が交錯する。時折、目にする記事を私にトレースする。

経験がすべてだと思わない。言葉で積み重ねる空想の世界は想像主の現実かもしれない。経験やもしれぬ。肉体を動かして知覚した現象が意味と連関した行為作用だけが経験だとしたら、僕はそんな経験に中指を突き立てる。

すべての言葉と想像のインターフェースを超えられない妄想は、人間に等しく与えられた素晴らしい才能だ。言葉を紡いで空想を重層的に展開しても、想像の埒外にある出来事が起きる。そんなとき、言葉と妄想を編み込んだ服を着た人は、他者にやさしくおだやかになれると信じている。