diary

短絡

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2012.06.11 晴れのち曇

今朝は Zebrahead – Wannabe でスタート。Spice Girlsのカバー。まれに原曲を超えたんじゃないか、って思うカバーがあって、でも、それも自分との相性でしかないよねって、反省しています、はい。

第二十六候、腐草為螢。先日、入梅を前に滋賀県守山市の市街地でゲンジボタルが飛び交い始めた記事を読んだ。一度、見てみたい。10年ほど前に亀岡で見たっきり。魚の値段がややあがっているかな。仕入れやすいのはかわらず安い。仕入れやすいというか、常時陳列される魚というか。直送やあまり見かけない魚のなかに、「えっ、この魚ってこんな値段するの?」って確認してしまう。

“VEGE BOOK 4 カフェエイトのヴィーガン和食” カフェエイト のシリーズを監修?!している方のヴィーガンカフェに行ってみたい。表参道にある。いまならヴィーガニズムのカフェは京都にもある(でしょう、たぶん)。東京へ行かなくてもよい。だったらどうして行くのか、であって、「ここでしか」がローカルなサステナビリティのコンテンツじゃないかなと思う。そう思うから自分の目で確かめてみたい。次に東京へ行ったときは足を運んでみよう。

魚や肉を食べている。好きである。にもかかわらず自分ひとりならヴィーガニズムな食生活を実践してみたい。そう思うに至ったのは睡眠である。魚や肉を食べない日の睡眠は快適だ。あの睡眠は食生活の刷新を誘惑する。食文化と信仰は連関しているかもしれないな。

幸いにも食物アレルギーはない(検査していないので反応する食物を摂取していないだけもかもしれないけれど)。またアトピーや体の変調に悩まされてもいない。ありがたいことである。食と信仰と睡眠の欲求からヴィーガニズムに興味をもっている。困るとしたらスイーツかな。

F先生の資料制作。矯正歯科のシステム構築。ワークフローとミーティングで検討する項目をリストする。まだまだ思考の断片をひろいあつめて紙に書いただけ。これからミーティングを重ねてカタチにしていく。

警察によると、という定型句の枕がついて報道が一斉にテンプレートの動機を報じ、それらに対して人々は「反応」する。世間の人々は報じられた動機を見聞して憤る。世間の反応は理解できる。しかし、報道が一斉に同型の動機を報じる点を理解できない。揃いも揃って「ほぼ同じ」フレーズを口にするのか、といつも思う。まるで警察や検察が最悪の凶悪犯罪や不条理な犯行に対するテンプレートを用意していて、それらを少しずつリークしながら裁判へむけて印象をインプラントしているように読めてしまう。

定型化できるだろうか?

同じ内容の記事が報じられたらできるだけ目を通さない。異なった見解の記事を探す。事実の切り取り方が斬新である記事を検索する。なかなか見当たらず。関心を持ちつづけて追い続けられるわけでもない。異常は生活に溶け込まない。生活のフィルターからこされず「非」のほうへ残される。くわえて記事の「追いかけ方」を知らないから関心は薄れる。やがて考えなくなる。そういう自分を認知する。次に知るのは裁判のとき。「そういう事件があった」と思い出す。量刑と自分の判定を照合し、感情を入出力したら自分とそれらの出来事を終わらせる。

“日本という方法―おもかげ・うつろいの文化 (NHKブックス)” 松岡 正剛 を再読して、言葉は方法か否かとあぐねる。言い方を体得するか、語彙を習得すべきか、あるいは「言葉」を抽象化した概念を学ぶか。綺麗な女性を前にして、「綺麗ですね」といったとき、誰に言われたかによって、「反応」は変わるだろうか。変わるだろう。そなたが言う「素敵」とこなたが言う「素敵」は違うとしたらなぜだろう。

どうしてこの情況で他者に向かってその言葉を選択して発話する?

この質問は他者に向けるでなく、私に向けよう。他者に向けたら内政干渉である。否、それよりも他者にそれほど関心を持ちつづけるべきでない。たぶん、持ちつづけても変わらない。そのまえにもっとセルフィッシュであったほうが他人との関係のなかで最適に健闘できると思う。

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