百年の誤読・誤解・誤認

2012.06.13 曇

今朝は SAKURA – Love 4 real でスタート。”あんたと付き合うのまじ超大変 まじ切れ寸前でもうやってけん だけど心に嘘はつかれへん やっぱあんたしかおれへん” と思った人はひとりだけいたなぁ、といつも思い浮かべながら聴いてしまう。いまどうしてはるんでしょうなぁ。記憶は存在するけど物質として存在してへんな、そんなふうにも受けとめられるんとちゃうか。なんで関西弁やねん。

「あれは私のことですか?」の着信あり。即答する、否。茫々の日々からたったひとつを抜き出して記述しない。いくつかを主観的に観察してからパターンを構造分析のち抽象化。それがぼくの探索経路である。

ぼくが語彙と術語を豊富に持ち合わせていれば、抽象化された思念はわかりやすく複雑に記述されるはずだ。悔しくも語彙と術語をもちあわせていない。抽象化された思念は中途半端になる。誰かが読んだときに、「私のことか」と訝らせてしまう。

結局、パターンを発見できていない。構造化分析があらく抽象化があいまい。ぼくの認識と思考のスキルはまだまだ稚拙。語彙と術語の総量が少ない証。語彙と術語をストックできても、それらを組み合わせて表現できなければ、「意味不明」からいつまでも抜け出せない。

昔はあったにせよ、いまは特定した何かを想定して発信しない。控えている。特定されたような印象があるならぼくの筆力が不足しているからだ。仮に発信したいなら、ユニバーサルを指向している。着想と向き合って抽象化する。自分の能力が問われる。「関係」にフォーカスするステージへさしかかっている、と自己分析している。ステージの情態はこれからも変容していく。

誤読の意味は、「まちがえて読むこと」と書いてあるが、近ごろの使われた方は本来の意味からときどき離れる。相手が自分の意図どおりに読んでくれない行為を誤読と指摘する。

駄文を書いてきてわかった。自分の意図を精確に伝達できない。伝達は至難。うまく書けたと思った文章を相手が読む。相手の読み方や理解の仕方、文脈の認識を制御できない。それを体感したら、「書かれたもの」はもう「自分」ではないと感じる。書き終えた後の自分のテキストは他者なんだ。そんなふうに思うようになった。肯定的で進歩的なニュアンスの「絶望」。精確な意図の相互通信は可能であっても、相互理解は不可能である、と前提したほうが書く方にとって気楽である。

14:00から京都駅でC社のH氏と打ち合わせ。打ち合わせの最中、アイデアをカタチに変える局面にさしかかっている、とぼくは判断した。先日、インセプションが放映されていた。DVDで観賞した。解釈の幅が広い。同じ映画を何度も鑑賞する癖を持つ。いまはそんな時間を惜しんでいるので20代のときのように何度も視聴しない。が、インセプションはこれから何度も観たい。「アイデアを盗み出すという犯罪分野におけるスペシャリスト」の物語。

書架の“アイデアのつくり方” ジェームス W.ヤング“アイデアのヒント” ジャック フォスター を取り出す。これまで再読を重ねた。アイデアは最高に大切である。“アイデアのちから” チップ・ハース, ダン・ハースもしかり。そして、 “アイデアを形にして伝える技術 (講談社現代新書)” 原尻 淳一 もあわせて体得しなければならない。

頭のなかで考えている「言葉(と映像」をカタチにしてアウトプットする。アウトプットされた「カタチ」を視認して周りは「言葉(と映像)」を「コンテンツ」として認識する。では、どうしたらカタチにできるか、と思う。言葉からカタチへの変換は、「考える」ではなく、「動かす」だと僕は考えて走る。動かさなければならない。具体的な作業だ。そこに抽象化の議論は必要ない。徹頭徹尾、手を動かし出力する。

ここ数日、睡眠の質が悪い。ひとつは腰痛。夜中に何度も目が覚め、数十分、座っていないとつらい。もうひとつはやっかい。茂木先生のFBのフィードから流れてきた文章、”「私的な事柄と公的な事柄の間の齟齬の中に、私たちの孤独の理由がある。ある役割を演じているとき、人は常に孤独である」”を読み、また向き合えると我を促す。