人々は他人にきびしく、ひとは他者にやさしい

2012.06.19 雨、暴風雨

今朝は Norah Jones – Sunrise でスタート。

第二十七候、梅子黄。昨年も書いたかも。梅の実が熟す頃の雨という意味で梅雨である同時に黴が生えやすい季節だから「黴雨」と書く。梅酒をつくったときの梅の実をかじる。アルコールの香りが嗅覚を刺激し、食べ終えてから数分後にやってくる顔のわずかなほてりがたまらない。クエン酸豊富、疲労回復やストレス緩和の効用とか。

ゲチョルと相まってよく降った。暴風雨の最中、傘をさす行為は自他の両方に対して危険が増す。安物の傘の残骸が塵と化した写真をネットで見る。

タリムの進路が気になる。いまのところ22日ごろ温帯低気圧に変わるとの予報。

近所の紫陽花がみごとだ。白、青、紫、淡紅などが雨のなかで栄える。形や大きさが不揃いで美しい。鎌倉の長谷寺で紫陽花を見て以来、紫陽花を観賞するようになった。近くにあのお寺がある、と思うだけで鎌倉に移住する価値がある。

1秒以下の単位で表れる顔の動きを他人は認知できるのだろうか? 腕を組む、手のひらを返す、ふんぞり返るなど、身体が示す仕草は目に見える。感知できる。顔はいかがか。目に見ているけれど認知できているかなぁ。目を閉じて人の話を聴く。視覚情報へ依存する感覚を体感できる。

たとえば誰かと向き合って座る。私が喋っているとき、相手の視線が私以外へ向けられていたとする。私は何を感じどう判定する? 相手の目と私のある一点を結ぶ視線が直線ならば私はしゃべり続ける。が、直線にあらず、目の線が弧を描くか、あちらこちらと遊動したら、私は「この人は私の話を聞いていない」と判定する。たとえ、相手の人が私の話を理解していたとしても。

そういう判定に至るプロセスを認知したとき、相手の顔や身体の「表現」で判断してしまっている自分を分析できる。私は情理を尽くして他者と語り合っていない。言葉より言葉でない「部分」を認知する。部分の認知から起動する感情が価値判定の基準に含まれる。

向き合ってコミュニケーションする情況において、私は相手の目や口やおでこや頬の動きを察知しているとも自覚はないともゆれ動く。口を結ぶ、口をゆがめる、目をそらす、おでこにしわをよせる、頬がふくらむといった動き。さらにもっと微少の動きが断続的に発生しているはずだ。そんなミクロな世界をリアルタイムに捕捉しているか? ほんのわずか、一瞬でも侮蔑や憤怒の表情を浮かべる。それは自分ですら認知できていないほんのわずかな「表現」である。

自分の顔の表情を完璧に制御できると思わない。不可能だとも思う。専門分野の論文や書籍を読んでみたい。

そんな「顔」、ほんのわずかな「表現」を見逃すか、確実にとらえるか。仮にとらえられたとしたら、顔の表現や感情を「言葉」に変換したくなる。変換できなければもやもやした何かが残る。残したくないから力ずくで変換する。大抵は「好悪」や「是非」の二つに一つの判定である。判定は価値の呪縛。

呪縛をとくとしたら超越である。

視覚と聴覚の情報を吟味して、どちらか一方の文脈に依存した判定から離れた次元の「位置」をめざしたとき、超越の「表現」を創造できる、と想像する。縦軸が視覚、横軸が聴覚だとしたら、いまのぼくの判定は二次元だ。奥行きの軸を設定しなければならない。`