人が人たるゆえんは次数をひとつ以上あげて考えられること

2012.06.20 曇

今朝は Cocco – 強く儚い者たちでスタート。「人は弱いもの」から「人は強いもの」へ転換していく、素敵。で、最後は強く儚いでしめくくる。よいなぁ。儚いのです。ほんの一瞬なんです、私の存在は。ほんの一瞬の一瞬なのに弱く脆く壊れてゆく。

日曜日につくったカレーを冷蔵庫から取り出しごはんの上にのせる。真ん中に空洞をつくり生卵を落とす。カレーのまわりにチーズをトッピング。すべてがととのったらオーブントースターで熱をくわえる。焼きカレー。

誰よりもはやく焼きカレーを思いついた人は、何をヒントにしたんだろうか。すばらしい×10乗以上に素晴らしい。下関ではじめて食し、衝撃を受け、家でも試したときに、なにゆえいままでやらなかったのか、深く深く自責の念にかられた。焼きカレーがラインナップに加わった今、カレー → カレーうどん or カレーパスタ → 焼きカレー の先発ローテンションが我が家に組み込まれている。最近では食パンにカレーをトッピングする中継ぎまであらわれた。

iGoogleのトップ画面にamazon.co.jpベストセラーのガジェットを表示させている。おもしろい。新刊でもない本が突然1位に躍り出る。たいていはメディアで紹介された本であり、なかでもテレビの影響はいまもなお強い。

不安をぬぐうために読むんだろうなぁと思う。“こころの処方箋 (新潮文庫)” 河合 隼雄“幸福について―人生論 (新潮文庫)” ショーペンハウアー、あるいは“置かれた場所で咲きなさい” 渡辺 和子 など、迷い、憂い、心が綻んでいる人はたくさんいらっしゃる。綻んでいる人に限らず興味があるから読む人もいるだろうし。

常時トップ10圏内のジャンルはダイエット系。人気がある。身体美容系も。少し前は骨盤とロングブレスと○○式ダンス系が人気で、最新ランキングでは糖質ダイエットがランクイン。

すべてのダイエットを実行して成功したら標準体重を下回りやせ細った身体になるじゃないかしら、と思ったりしながら、痩せるという欲望の発生源が気になる。

からだによいとうたわれる情報はテレビやラジオ、新聞、書籍、ネットのあらゆる媒体から届く。そのなかには国の指針が含まれる。健康である「基準」や「標準」が設定されている。メディアへアクセスする生活環境はそれらの情報と接触する。情報は私の意識へ侵襲する。

僕は自分の身体を思いのままに制御していない。している、は錯覚だ。国家が推奨する基準に支配され身体を統治されている。からだによいとうたわれる情報の「基準」や「標準」は、僕のなかでだんだん強固になる。強固は倫理や二項のイメージを定着させ、「見方」に作用する。それらの情報は他人を判定するための材料として使われる。「基準」や「標準」からはずれた他人と接したとき、僕の反応はパターン化していく。からだによいとうたわれる情報による反応のオートメーション。

数値が生成するイメージは日常生活のどこかに居座ってごくごく小さな脅迫観念を形成する。「〜しなければならない」というニュアンスで衣食住が語られる。「〜しなければならない」は時代の風潮にあわせて礼儀作法を書き換え、人々は他人を攻撃し、ひとは他者を労る。

国家や医療機関はみずからの責務を果たしている。責務から僕は逃れられない。たとえありがた迷惑な支配と統治であったしても、それらを受け入れたうえで超えなければならない。

受け入れて超えたいならば、「からだによいとされる情報」と向き合い考察する。情報は健康とリンクし、健康は生活とつながり、生活は人生へ昇華し、人生はやがて生へ変容して、生は裏側の死のコインとなってトスされくるくる回り、コインの落下を傍観しながら、ゆくえを見守れない。そんなふうにひとつひとつの次数をくりあげて向き合っていく。

情報が健康とリンクしてひとつ繰り上がる次数について考察する要素はたくさんある。考察は膨大な時間と手間と仕方を要求する。時間と手間と仕方を認識したらあきらめたくなる。あきらめるかつきあっていくか。どちらでもよいし無関心でもかまわない。どれであれいかなるものであれ、時間の過ごし方は私に委ねられている。

時間と手間と仕方に苦慮しながらゆったりむきあって次数の階段をのぼっていく様を自分だけの感想文として記述する。そのプロセスが“パンセ (中公文庫)” パスカル の考えることについて考える、かもしれないなぁとふとよぎった日々。