詰まるなら吸い取るよ

2012.07.01 雨

今朝は Coldplay – Clocks でスタート。 “コンフィデンス [DVD]” ジェームズ・フォーリー のエンディング曲。この映画、とてもとても大好きで結果を知っているのに数十回みた。いまでもたまにシーンだけを切り取ってみたり。俳優の表情をじっとみる。ダスティン・ホフマンの演技がスタイリッシュでクール。

第三十候、半夏生。夏至から数えて十一日目を半夏生というらしいが、いまは07月02日とか。語源は烏柄杓が咲く頃だからとも半夏生の名をもつ草の葉が白く染まる頃だからとも。今頃の雨を「半夏雨」という。大雨になるとされる。

麦藁蛸に祭鱧。麦の成熟とともに蛸がやわらかくうまいころあい。蛸しゃぶが好物。が、高級な食をそうそう日に日に賞味できるすべなく、スーパーで販売される蛸をかごに入れ酢とあえていただく。それもうまい。身体の調子が下降線をたどりそうな気配。青紫蘇となにかをさっぱり食べたい。

“響きと怒り (上) (岩波文庫)” フォークナー, “響きと怒り (下) (岩波文庫)” フォークナー, “ハチはなぜ大量死したのか (文春文庫)” ローワン ジェイコブセン, 福岡 伸一 が届く。いずれも楽しみにしていた。フォークナーを読破できるか不安。理解となればさらに心もとない。そろりそろり読みすすめよう。“失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)” プルースト は開いてはためらいの連続。

火急のサイト作成の案件、没入する。PC, タブレット, スマートフォンのマルチデバイスアクセスを想定して作成。が、ここで悩む。Retinaディスプレイ。

Retinaの意味は「網膜」。Retinaディスプレイはいまのディスプレイより鮮明で深みのある色を表現できる(技術的詳細は割愛)。iPhone 4SやiPad(第三世代), MacBook Pro (mid 2012)のディスプレイに搭載されている。これらのディスプレイが表示するテキストはにじみがなく綺麗。これらでサイトのテキストを見慣れると、元にもどれないと思う。

悩みは写真。いま表示している写真や画像の質。Retinaディスプレイがデフォルトでないとはいえ、いずれ写真や図の再構成に着手しなくちゃいけない。

たとえば歯科医院のサイトで症例をアップしていたら、写真の構成を再考したほうがよいかも。1ページに小さい画像(200×200や250×250など)をたくさん表示させるより、強い印象をもたらす高画質の写真を数枚表示させたほうが閲覧性は向上しそう。

ある先生が症例の写真について細心の注意を払って撮影されている(構図,被写界深度,ホワイトバランス,保存方法など)。その先生のサイトで掲載される写真は極力減らされる。こちらが写真を掲載して詳しく説明したほうがSEOの効果を見込めると説明しても、これだけはゆずれないとおっしゃって、なるべく初診・治療中・治療後の3枚を心がけていらっしゃる。いずれの写真もすばらしいのに、先生はまったく満足されていない。

そういうプロセスの目の当たりにして僕の視点は変わった。意見を書き換えた。不要な情報が削り落とされた症例写真は強い衝撃を与える。シンプルがもたらす視覚への訴求。一目瞭然。

自分を無にする。自分というものを考える行為を放擲する。根拠なき直観。“正法眼蔵” を少しずつ少しずつ読み進めて浮かぶ朧気な輪郭。自分というものを持つ、持ちたいから、相手が存在する。相手の存在が意識/無意識を問わず自分を感情の縄で縛り付ける。たとえ相手が自分に影響を与えたとしても、私が自分の感情の縄で自分自身を縛り付ける。相手は僕を縛り付けない。その<私>が鍵。そう直感している。

僕はまだ<私>を知らない。いまは自分を少しずつ少しずつ捨てるトレーニング。捨てるを意識する。意識しなければまた自分はまたやってくる。やっかいだ。

自分はやってくる。自分は言葉を抱えて私のもとへやってくる。だけど、私は「言葉」を自分に対してうまくコミュニケーションできない。ましてや他者になんて説明できない。

言葉がない、せめて言葉の呪縛から逃れて「考える」にチャレンジしたいのに言葉の檻に閉じ込められる。感情の縄は物質ではなく言葉だ。縄の色や質感や形状を表現できないから、分明でない不確実な「体験」や「経験」が自分をゆさぶり不安に陥れる。