人生二度目の体験は愚かな反応を引き起こした

2012.07.05 曇時々雨

今朝は Fun.: Some Nights [OFFICIAL VIDEO] でスタート。はじめて聴いたとき、ヴォーカルのパフォーマンスがQueenに似ているなぁって感じた。検索してみたらそう感じる人はいらっしゃるみたい。英語圏だと Fun. Queen の次に  influence や comparison がリストされるので英語圏でも話題になっているのかしら。

F先生の資料制作。資料制作といってもプロトタイプを真似て制作。真似から派生できない限界。院長先生にお時間を頂戴してプロトタイプからの展開モデルを構築しなくちゃ。僕の情報量だけだと制作できない。ヒアリングをくり返してアウトプットを持ち帰りたい。といっても、いまの先生は多忙を通り越していらっしゃるので待ちかな。

先日、 “試練と成熟-自己変容の哲学- (阪大リーブル034)” 中岡 成文 を読了。先生の意志パッケージを正確に受信できていないはずだから僕の理解は自己流の解釈にすぎない。その解釈をもってして”当たり屋”は中動態かどうか気になった。「自己」に対する叙述は、自己と外部の界面を自分で考える契機になった。

数年前まで自己と他者と明確に区分して境界を設定していた僕と、それに疑問をもちはじめた自分がいる。疑問の輪郭はぼやけていて、自問を設定できなくてとまどっていたところだった。そんなときに先生は輪郭に補助線を引いてくれた。自分を外部に拡張させた「自分離れ」の情況が「自己」の基底に伏流しているかもしれない。とっかかりができてとても嬉しかった。

16:00すぎに大阪へ。列車の中でカメラを忘れたことに気づく。しまった。板書や資料を記録できない。まいったなぁっと凹みながら大阪駅で途中下車して“チャンピオンたちの朝食 (ハヤカワ文庫SF)” カート,Jr. ヴォネガット, カート・ヴォネガット・ジュニア, 浅倉 久志 を探しに本屋に立ち寄ったら財布を忘れたことに気づいた。

人生二度目の体験。かなり焦った。焦ったから本屋で冷静になれと自己暗示。携帯は持っている。だからiDとEdyを使える。ICOCAを持っている。クイックチャージ(クレジット入金)したらOK。ということは、万が一帰宅できなくなったら、いずれかの電子マネーが使える施設を利用すれば大丈夫。電車があるなら帰宅できる。

何が起こったときに危機かをおおよそ整理できたので落ち着いた。目当ての本もなかったので、本屋さんで“言葉と物―人文科学の考古学” ミシェル・フーコー を立ち読み(申し訳ありません)。ほんとにおもしろいなぁ。買いたいけど二の足を踏む。いつかね。

19:00からF先生とミーティング。21:00前に終了。終わり際、先生が勤務医のK先生に「食事どうする?」って尋ねられたときに、「あっ、私は…..(失礼いたしますというとぎれのニュアンス)」と口走ってしまった。数秒後、顔から火がでた。はずかしい。なんとおろかな反応。先生は私の目を見て確認していない。なのに私は「先」に打った。カメラと財布と忘れた動揺は体内に残留して精神に多大な影響を与えていた。

東京大学には入ったけれど・・・ああ無常 人生の失敗を始める頭の“良すぎる”学生たち の記事と反応を読む。ブランドと帰納的物語は読み手を刺激する。”「どこかに必ず、正解とされるものが書いてある」という思い込み、錯覚。”には同意する。同意したからといってそれを観察の材料に含んだら、観察対象の事象をゆがめてしまう。その錯覚を願望して観察してしまう。願望は事柄に関与する。改変する。

僕は医院や医院の個を観察するとき、”「どこかに必ず、正解とされるものが書いてある」という思い込み、錯覚。”を対象にはめこんでいる、って記事から自覚した。

いまの観察スタイルを壊して、感情を制御/抑制した観察と観察結果の事実を精確に記述するスキルを身につけなければって実感。