いいね!は社会の黄金律

2012.07.16 晴れ

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今朝は PES from RIP SLYME – 女神のKISS でスタート。ラジオではじめて聴いたときここちよかった。夏空のドライブを思い出したり。車乗らないのに。いい加減なもんだね。朝っぱらからうまいウィスキーをのみたくなった。

午前中、C社のサイトをメンテ。これから更新していくコンテンツを資料にまとめる。コンテンツの定期的なスクラップアンドビルド。いまだとスマートフォン向けかな。専用サイトを制作していなくても、スマートフォンからの流入は増加の一途。なのにコンテンツはPC向けのままだと好機を逃してしまいかねない。

昨晩つくったチキンライスを冷蔵庫から取り出してレンジで温める。ランチ。赤と黄のピーマン、ズッキーニとマッシュルームがアクセント。ケチャップの量にたじろいだが、食べてみたら思ったより濃くなくびっくりした。ということはお店のチキンライス、何か隠されてるな。だって味のコク(?!)っていうのか、それがもっと感じられるから。自分のチキンライスも美味いし、自分のがコンパクトデジタルカメラだとしたらお店のは一眼レフ、みたいな味の仕上がり感の違い。

もう夏空だ。窓の向こうに紫陽花。強い陽射しが照りつける。これからあっというまに枯れてゆく。枯れる前に処理されるかなと思いつつ今年の紫陽花を見ながらランチ。道行く人。アスファルトの反射に閉口している人、紫外線を気にする人、くわえ煙草で歩く人、それぞれの歩き方をながめる。

ひとりでランチを食べながら無意識にながめた人々の人数はどれぐらいだろう。

いまごろの黄昏は昼夜の裂け目をはっきり演出する。黄昏がはっきりしている、って言い方は矛盾している。でも、昼と夜の裂け目をつくる黄昏を味わえるのはいまごろじゃないかしら。

眼鏡をかけずに道端で誰かとすれ違ったら、向こうが声をかけてくださるまでわからない。普段、眼鏡をかけないから「誰そ彼」には無縁であり、黄昏の裂け目が表現する「見分け」のつかなさの畏怖を味わえない。それでもあの昼から夜へのうつろいは感じられる。あの曖昧さ。

恐怖が誘因する曖昧と嫌悪が誘因する曖昧は違う。前者のなかにはどこか畏怖の念が含まれているような印象。それが転じて禁忌の対象へ。あっ、逆か。曖昧が恐怖を引き起こして畏怖へ転化して禁忌かなぁ。

後者の曖昧は境界線。自分の「属性」を明確にする境界線を引く。境界線から向こうの物質を嫌う。そこに畏怖はない。罵倒の嫌悪。

人を育むうつろいには曖昧があってよいと思う。うつろいの曖昧。曖昧が誘発する奇妙な言動を受け入れられるか。受容は私へ負荷をかける。負荷に耐えられない。境界線を引こう。私の境界線の内側でうつろってくれ。そんな欲求。欲求は目標に転用され、秩序と調和のなかで目標はつくられる。混沌のなかで目標はつくられない。

境界線の外側にあるものを発見する営み。外側と内側に引かれる線を見つけなければならない。見つけるすら徒労に終わりかねない境界線。その境界線が広大な「面積」を有していたらどうしよう。そのなかにさらに線、線、線。もういったい何がなにやら。

内側で慰め合い競い合う営みより外側にあるものを認める苦痛と快楽。でも、そうやって「外側」にばかり目を向けている自分はいつしか内側のモノとコトでなくなり、これまた「外側」へ属しているやもしれない。あの人の態度が嫌いだと言っていた「あの人の態度」と同じ態度を身につけていた自分のように。