2両目の2番目の扉

2012.07.22 晴れ

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Jl15MU7e05o]

今朝は Lake Street Dive – Faith でスタート。ジョージ・マイケルのカバー。あのPV、大好きだったなぁ。あれ、いつごろでしょうか、100円投入したらPVを視聴できるBoxがお店にあって、トータル1,000円以上は投入したような記憶が。いや、気のせいか。いや、たぶんしたよ。みんなで踊ったし。このカバー、クール!! 一発お気に入り。

二十四節気、大暑。太陽の黄経が120度。暦では暑さがもっとも厳しい日。 数日前の酷暑ほどでなくすごしやすかった。もうすぐ土用の丑。今年は食べないかな。暑気払い、といわれても何をしてよいのやら。そういった先人の所作を知らずにいままでやってきたし、これからもやっていくのでしょう。

第三十四候、桐始結花。鰻の報道は、「食べる側」からの視点で報じられるばかり。この一点だけに絞れば、環境は人間からみた景色なんだな。食べられなくなるからやや困った、でも我慢しようとはならないし、老舗がやっていけなくなると情けが集まる。

M先生のウェブサイトのフレームワークがようやく決まった。半年、試行錯誤してきた。これでいけそう。いままでお世話になりっぱなしだからなんとしても恩返ししたい。これから5年(?!)ぐらいは耐えられるサイトを制作したい。たったの5年(?!)だと思いつつ、5年前にPC, タブレット, スマートフォンに対応したサイトを制作しなければならない、なんて準備していた制作者は一握りと思う。

FBで写真をアップしたら先生からコメントを頂戴した。自分が書いた文章に自分でコメントを残した。即興で書いた文章を読み返したとき、二つの単語から「くどさ」を感じた。感じたから即座にコメントに残した。自分の評価を忘れたくなくて。そのコメントに対してコメントを書いて下さった。コメントを読む。自分の行動パターンの意味を自覚した。

僕は新快速の2両目の2番目の扉からいつも乗降している。験担ぎじゃないし意味はなかった。なにも考えていない。気がつけばいつも同じ扉から乗降していた。そのパターンを文章にしてみたら誰かの目にとまった。

目にとめた人の読解の痕跡。文章に書かれていないコトも認められている。あっ、そんなふうに解釈されるのか! 五感と語感が互換した。

文章になった僕の言動は、自分のようで自分でなく、半「自分」みたいな宙ぶらりんの存在だ。書かれていない文脈、頭のなかで省略してしまった事柄を行間にさし入れて読む。ここのくだりは消されたコトを補わないとわからないよなぁって自己満足しながらクールとホットの間を行ったり来たり。そこから新しい発見があるとしたら、数ヶ月か数年後。

でも、今回は発見は数時間後にやってきた。半「自分」に対して自分以外の方々が反応したから。コメントが触媒となって原文にユニークの意味を付け加えられる。

“常識にとらわれない100の講義” 森 博嗣 がアマゾンから到着。タイトル買い。パラパラめくって100のタイトルをスキャンしただけなのにドキドキする。先生の言葉にドキドキしているかぎり、自分のスタイルはユニークからほど遠い。並以下の発想で生活しているなぁと認識できる。中身を読む前、タイトルだけでドキドキしているなんて、っていわずもがなとやめられない気持ちが錯綜。

自分をアップデートしたければ、やっていない操作をやらなければならない。やっていない操作ならまだ楽だ。操作方法を知っているから。やったことない操作をやらなければならないとしたら?

MicrosoftのWordをさわっているとき、ファイルの完成図をイメージする。イメージへ到達するために「こういうことできないだろうか?」と質問を設定する。それから検索する。検索結果は「操作方法」か「代替案」を提示する。90%以上の確率でどちらか表示される。否、僕が作成するファイルだと、99%かな。この種の「やったことない操作」も多少やっかいだけど楽。

検索すれば結果を表示してくれる。

自分のアップデートに必要な「やったことない操作」も表示してくれるだろうか? それにはまず「キーワード」を思いつかないと。そのまえに向き合わないと。