彼らにとっては夢が現実

2012.08.20 晴れ

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=otJzLb_N1Vs]

今朝は Houston Person – Jamilah でスタート。朝から American jazz もよいです。寝起きのぼぉっとした頭をスッキリさせてくれる。BGMにはうってつけ。これでブラックコーヒーがあればご満悦。

午前中、M先生のWP制作。先生から制作の承認をいただいたので淡々とすすめる。ブレークポイントに悩むも表示に気をとられて肝心の中身を巧く表現できなかったら本末転倒。サクっとツルっと制作するリズムとウジウジ悩むポイントをジャグリング。

午後からF先生の資料制作。矯正歯科の配布用資料。専門用語と表現の案配やいかに。専門用語を多用したら文章を短く端的に書けるが、読んでもすっきりしない。自分が手に持ったとき、あるいは想像する人物が手に持ったとき、どんなテキストが目に飛び込んできたら次へ視線を移すか?

かといって専門用語をかみ砕いた単語に置き換えると文章の輪郭がぼやけてしまい焦点がさだまらない。ピンぼけの写真になってしまう。帳簿を家計簿、お小遣い帳って置き換えてわかった風でも実は合意形成なされていない、なんてことはしばしば。国家財政をお家の家計簿に例えましょう、ってアレは多分、誤解を多発させていやしまいか、と思う。

特急列車に乗る前に購入した “その未来はどうなの? (集英社新書)” 橋本 治 を石川県の往復で読了。先生の文体について僕は好意的に受けとめている。意見に対して反論はある。今回も反論しながら読んだ。大抵は具体論に対して反論し、抽象論へは反論できない。

賛否のジャッジより、先生の着想や発想、問題設定の視野や立脚点を学びたかったので必死で読んだ。巨視的から微視的へ移動させる文体はおもしろい。文意は抽象と具現の境目にありそうだとさぐる。

さっきまで抽象的な話が展開されていたのに、次の段落では僕の身の回りの出来事が記述されていて、その距離感というか、視野のコントロールのスピードがものすごく速い。そこがたまらない。ずぅっと抽象的な話が続いていたらだんだんついていけなくなるところ、絶妙なタイミングでぎゅっと視野を狭めて具体論へ踏み込み、それが続きそうなところでまたパァっと思考が拡張する。思考の拡張にかかわる時間軸が長い。どこの過去まで遡るの?ってつっこむ。

大阪へ行くとき、なるべくビッグイシューを買う。ずいぶん前に買った187号を読み返して、MERYL STREEPが演じた『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』についてのスペシャルインタビューの記事が目に止まった。

「この映画は結局、ある年老いた女性の人生の3日間を描いている。その3日間に女性がするのは、人生の思い出を何とか荷造りすること、そして彼女が生きている瞬間を生きること。過去を生きるのではなく、流し台の前に立って、鳥の声を聞き、子どもたちの声に耳を傾け、今いるまさにその場所で、自分の人生を生きる。私の母のことをいうと、電話で誰か友人の死を知らされる時、母は『まあ、みんな降りていくのね』と言うの。つまりこの世から姿を消すということね。そんなふうに現実と直面する時の平静さが、私にはすごいと思える。もちろん母は悲しみを感じているけれど、生きている。生きられるだけ生きる。そこがおもしろいと思うわ」

ビッグイシュー日本版 187号 2012.3.15 P.5

養老孟司先生は自分の死を一人称の死といい、「客観的な一人称の死はない」と書いた(“死の壁 (新潮新書)” 養老 孟司)。一人称の死、という単語を目にしたとき、認知症がよぎった。そしたら先生は別の著(だっと思う)で、認知症は本人の病ではなく、他者の病である、みたいな内容(本文を覚えていない)を書いていらっしゃった。

私が私であると認知しているかどうか僕は知らないし、疑似体験は難しそうだ。ならば実際に体験したら、その時はすでにこうやって何かを書いて考えられないかもしれない。いろいろ推し量ったところで、患ったらいつの時点からかは定かでなくてもいつかは自分の病でなくなり、他人が世話する事象に変わる。

先生の文章には、「人間の意識なんて頼りにならない」が同工異曲に現れる。1/3が寝ていて無意識の人間の意識なんてあんまりアテにしないほうがいいよとか。

意識が私を担保しているなら、寝ている間の私は誰でもないし、案外、夢の中が現実であってもおかしくないなぁと妄想してみたり。

あの人たちの目に見える風景とそれをどのように受けとめて、理解しているか。自分、についてどんなふうに認知しているか、と無邪気に子どものように笑い、とまどい、いやいやと顔をふり、大人でも子どもみたいな顔つきだと子どもだと思い込んでいる98歳の老人を僕はずっと見ていた。