diary

視線と視点

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2012.08.23 晴れ

今朝は MIWA – ヒカリヘ でスタート。ラジオで知った歌。

二十四節気、処暑。太陽の黄経は150度。新涼近しといわれるが、体感はまだ通し。第四十候、綿柎開。綿を包んでいた萼(=柎)がはじけ中からふわふわした綿毛に守られた種が飛び出す。見た目が鰤に似た平政。猛スピードで泳ぐ魚は鰤より脂が少ない。スーパであまり見かけないので照り焼きが食卓にお目見えしない。

前日、先生のご自宅でお酒をいただきすぎたためか、睡眠不足か、午前中のCPUは省エネモード。なので、サーバのメンテや雑務を片付ける。午後からF先生の資料制作。作成した資料を読み返し、コレを渡すときの状況を想像しながら、もう少し削るか、足すか悩む。まだ作成していない資料についてIllustratorを使うかどうかもあわせて熟慮。

皇子山球場付近

立っている状態から座る。視線の高さや位置が変わる。天橋立を逆さで見るみたいに股の間から景色をながめたら構図は変わる。視線の構図や位置、高さを変えたいなら自分の身体を自由に動かしてみたらよい。手軽だし、子供や老人の目の高さを味わえる。高さが変われば気になるポイントが移動することだってある。

あくまで疑似体験だし、僕が視線の変化をあらかじめて想定して意図的に変化させているから偶然からはほど遠い。だけど、視線はわりと思うように軽やかに変えられる。

視線と視点の差異ってなんだろうか? 現場を体感したときに感じる疑問。言葉が構成する意見について視点をかえて考察してみようとか、相手の立場になってとか、いう。視点を変えるのは難しい。

視点を変えられる範囲が一定の距離だとしたら、その距離の外側にある「視点」を僕は知らない。知らない視点から事実を把持できるかしら。

視線は視点が固定されなければ、外界の光点と網膜上にあるこれの像とをつなぐ直線がひけない。だから、視線と視点の差異は、前提が間違っているんだなぁって自問自答してみたり、差異よりも関係を問題に設定したほうが次へ展開できるかもしれない、って淡い望みを抱きつつ。

濃密にまじわっている関係が構築した環境のなかには、「よく使われる言葉」と「よくあらわれる文脈」があって、二つを余所の環境にインストールすれば不具合が生じかねない。言葉と文脈の使用者がそれを承知で二つを使っているんだったら、周りは沈黙していたらよい。

ただ、Aという関係が構築した世界に存在する「よく使われる言葉」と「よくあらわれる文脈」とBという関係が構築した「よく使われる言葉」と「よくあらわれる文脈」の位相が並行世界ぐらい交わらず、かつ、ある人が両方に所属していたら、ときに慎重にしばしば素直にたまに大胆に言動を選択すべき、と僕は考える。

それは、関係を持つ人々に課せられるテーマで、僕はBとCに所属していたら同じ作法を身につけたい。でなければ、たぶん、分かち合えない。

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