周りを変えたい固執は私を認めさせる脅迫

2012.08.27 晴れ

今朝は Janis Joplin – Cry Baby (live in toronto 1970) でスタート。コレ、生で見たら涙がボロボロ出ますよ、きっと。いや、英語の意味はわからなくてもよいです、彼女の歌声とパフォーマンスが五感に突き刺されば全身全霊が反応するから。4:27あたりからYouTubeでもブルブル、肌はプツプツ、体毛はピンピン。

首が痛い。パンパンにはっているかも。ディスプレイをじっと見られない。30分おきに休憩しながらの仕事。日中ほとんど座っているので、外出したときに体力の低下を実感。体幹?! というか身体の中心が衰えている点を強く実感。身体を支えられない。

ゴーヤをちょくちょくいただくのでゴーヤチャンプルやゴーヤの料理が食卓に週1,2回お目見え。美味い。味は見と美で楽しませる。沖縄で食べた沖縄料理より大切な方と京都で食べた沖縄料理のほうが美味かった記憶の抽斗が開く。おもしろいなぁ。ひょっとして沖縄料理に限らず本場をしのぐ料理は他にもあるんじゃないかしら。

今月はいくつかの現場を観察させてもらった。組織風土という単語があるように個人も十人十色だ。共通点を強引に抽出するとしたら、「関係が環境を設計している」点か。適材適所が人を進化させるし、環境が適材適所を選択する。適材適所が難しいわけでなく、適材適所の発見が難しい。関係は人を進化させるし退化させる。進化を選択する個体と退化を選択する個体の差異は自己にある。自己は自分の中というニュアンスではなく、たぶん、自己と環境の「間」に隠れている。間はうつろっている。これが自己(!)だって取り出せない。

養老孟司先生の “養老孟司の大言論〈1〉希望とは自分が変わること (養老孟司の大言論 1)” 養老 孟司 のタイトル、「希望とは自分が変わること」の緒を空を見上げるようになってつかめてきた。「自分を固定しておいて外が変わることを期待するのを希望とすると、希望はなくなる」と先生はポッドキャストでおっしゃっている。続けて、「自分ぐらいいいかげんなもんなくて、自分はどんどん変わるって考えると、とんでもなく世界はひろがる」と笑って語る。

自分とは違う価値観や言動に対して冷ややかに、見下ろせば、自分から見える世界は安定している。自分の意見、本音が固定している人と自分の意見、本音がどんどん変わる人が、同一の事象をながめつづけたら、前者の人はずうっと同じ景色が見え、後者は日を追うごとに景色が変わる。変わる景色を楽しめる。

テンプレート、よいわるいではない。うつろいを楽しむ自分、自分を楽しませるのは自分、というエゴイストになれば他人の景色に関心を寄せられる。実体の世界はひとつであっても言葉の世界は複数ある。その複数の世界と実体の世界をすりあわせていく。ひとつになりにくい「こと」や「もの」に対して折り合っていく。そのふるまいが他人の景色に関心を寄せることだと思う。

他人、展開すれば他者、昇華したら外部に対して自分を没入させれば、自分は自分を楽しませる。

自分の固定を揺り動かす存在に遭遇したとき、対処できれば平穏は続き、対処できなければ自分の感情が損なわれる。損なわれた感情を回復させる方法を知っている人は時間をかけたらもとの「位置」へ帰る。それを知らない人は、うろたえ、自分を落ち込ませる。自分を落ち込ませるのは他人ではなく自分だ、と僕は思う。

フリーランスになって9年が過ぎ、自分ひとりで仕事をして誰かと話す機会が極端に減った、と自覚した。自覚できたのは最近だ。どうしてかというと、他人に対してものすごく横柄に接している、と理解したから。自分を認めてもらいたくて、他人と自分を比較する。比較優位をあの手この手で第三者に表現して認めてもらおうとする。

その結果、自分が事象の中心であるように物事に取り組み、他人へ自分を語る。そこには「関係」と「環境」を慮った形跡はなく、ただただ「自分」をいかにプレゼンして評価(この場合の評価は”よくほめたたえてもらう”という意味)してもらうかだけに意識は集中する。評価してもらえるように周りを変えたい固執は私を認めさせようと外部を脅迫している。脅迫を迫られる外部はさらに攻撃的になるか無関心へシフトする。

結果、選ぶ。自分のお気に入りを集め、自分のお気に入りを選び、自分のお気に入りを育てる。そして9年、誰からも助言をもらわなくなり、自分の進化させるつもりが退化させていた。

こうやって自省風に書いているように自虐的なテキスト自体が、内省している自分をプレゼンして他人の評価をもらおうとする脅迫の欲求なんだ。