diary

目が無言葉を送信したら受け手は言葉なしでは目を読みとれない

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2012.09.10 曇

今朝は ティーナ・カリーナ – あんた でスタート。ラジオで知った曲。関西弁ラブソング。僕の中では、この歌い手さんのような「歌い方」と「曲のリズム」にはパターンがあり、「ドストライク」という脳内カテゴリーに分類されます。はじめて聴いたときからど真ん中やや低めでズドンとキマした。

アルバイトの資料が到着したので入力。日曜日からスタートして没頭。なんとか今日中に終わらせたくて根を詰めて入力したら肩と腰がバキバキになってしまった。夜、入念にストレッチ。

高倉健さんのインタビュー番組を録画。とても楽しみ。健さんの映画はほとんど観ないし知らない。なのに大好き。『夜叉』って映画を21,22歳ごろだったかにテレビでみたとき(リアルタイムじゃなくて)、顔の表情に魅せられた。セリフではなく、顔や仕草で表現しているって感じた。ほんと、スゴイ!って思った。

それから健さんが大好きになった。

「目」の表情はあるかもしれない。健さんだけにはそう思う。目が表現する。目が語りかける。言葉はない。目を見つめる受け手はいかようにも「信号」を受けとめられる。目から受信する「表現の小包」は「いま・ここ」の文脈によってかわる。ある人は怒りと、別の人は憎しみと、慈しみ、悲しみ。

矛盾がある。送信者の言葉なき表現の小包を受信した受け手は「言葉なし」では表現を理解できない。その小包を開けて、「中身」を確認するのは言葉だ。受け手が豊穣な言葉と感性を持っていれば、「中身」の色空間の座標軸は広がる。反対に貧弱であれば色空間の座標軸は縮む。ひょっとしたら万に一つ「4色型色覚」の受け手もいる。

“子供の科学 2012年 10月号 [雑誌]” 誠文堂新光社 を近所の書店で購入。近所の書店は半年1回ぐらいのペースでディスプレイを模様替えする。いまやちくま学芸文庫や講談社学術文庫は置いていない。売れ筋や人気がありそうなジャンルを増やす。スタッフの方々の苦難が伺える。「買う」と決めている本を店舗で購入する利点が僕にはなくなりつつある。

装丁やジャケットに魅せられて買う人や紙の質感に惚れて買う人もいると思う。「本」を愛する人たちの指向はあるはず。僕はそれらに興味や関心がないから、とにかく「中身」をダウンロードできればそれでよい。

本やCD・DVDなどのすべてをファイルサーバやiPadに保存したら、自分の感覚がどんなふうに変わるか体感してみたい。むなしさを感じるだろうか? 背表紙が持つ「文字」の圧力を感じなくなったとき、僕のなかでどんな変化がおきるだろう。

本の中身がデジタルデータになったとき、いつか本の中身を時系列に配置していくれたり、登場人物を空中のディスプレイに描写してくれるようなサービスが開発されるだろうか?

たとえば、“竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)” 司馬 遼太郎“翔ぶが如く〈1〉 (文春文庫)” 司馬 遼太郎 をデジタル化したとき、それらの年表を空間に表示して「交差」する出来事や人物を解説したり、とか。

いまのパーソナルコンピュータの用途が書き換えられるとしたら、ディスプレイ+キーボード+マウス+パソコンからの脱却だろう。専用のツールを目に装着すれば、「空間」に様々な情報が表示され、携帯のアドレスから「誰か」を指定して、「話し言葉」をそのまま送信してくれる。

そんな環境がやってきたとき、「本」の表現は変わるか? 「文字」と「映像」の中間ぐらいに位置しそうだ。じゃぁ、映画やドラマとどう違うの? って疑問があって、そこが次世代の「本」を埋める「空白」かなって布団でまどろむ。

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