毎日昨日までをリセットする意識

2012.10.18 雨

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Gs8QvoeCMDs]

今朝は チャットモンチー – コンビニエンスハネムーン でスタート。コンビニフリークではないですが、このPVはコンビニへウキウキさせてくれて、「日本生まれ、日本育ち」から「地球生まれ、地球育ち」へがコピー的にはキタって感じの、僕も日本酒はあんまり飲めないからピッタリ、つまるところ日本人で地球人で宇宙人で、なんでもよいんだよ、自分はワタシだからって、ほっこり、今日も戦おう。

第五十一候、蟋蟀在戸。ツヅレサセコオロギらしい。といってもどんなコオロギか知らない。知らないから検索したら画像が一瞬で表示される。ほんの30年前にはありえなかった環境だ。旬は魳とのこと。「一寸ごとに味が変わる」といわれ、大きさによって開き干し、塩焼きや煮つけ、そして刺身へと料理を変えたら美味いという。おもしろい。

月曜日、水曜日とF先生の資料作りのためにいろんなサイトやデザイン、コピーを検索した。検索しているときの自分はイヤだ。何も生産していないからまったく仕事していないみたいだし、ずっと同じ姿勢で座っているから身体が冷凍された感じ。火曜日に立ち仕事とPCの設定が重なったせいか、背中がボロボロ。背中の痛みはつらい、こわい。

フリーランスになって9年になろうとしている。火曜日にKさんと話していて、片端になったとあらためて感じた。組織を外から観察する視点を見つけられたかもしれないが、自分を律することが難しくなり頭が固くなった。自分の思いや考えは他人へ伝わりにくい。その言葉を理解できたとしても、身をもって知り改めるのはよほど己を冷静に分析しなければならない。己の思惑を切り離して己を他人のごとく始末する。

自分ではあたりまえにしているつもりでも、他人からは気まぐれに映ることはあるし、その逆もある。野菜がひとつもはいっていない買い物かごを見て、野菜をあまり食べないのかしら、と受けとめる人もいる。そのとき見た光景を知っている言葉と文脈でしか解釈しなしてく、フレームの外側にある”もしかして”はそもそも思い描かない。

たぶん誰かと向き合うというのは、知っていることを確認したり、知っている単語を披露するとか、勉強した知識を開陳する、なんてではまったくなくて、僕のフレームの外側を手探りしていく作業なんだ。

INTERVIEW 「正常」とは何ですか?:伝説の精神病院「ラ・ボルド」で写真家・田村尚子が写した問いかけ « WIRED.jp はフランスのなかでも特殊だという断りを入れているが、それを差し引いても、「正常」とは何ですか?と突き刺さる。意味を定められない・できない質問は、それ自体が完結した閉じられた質問である。その質問なのに突き刺さる。”時々、私を朦朧とさせる疑問…「おかしいのは私なのか、彼らなのか」(アインシュタイン)”もまたそのとおりであり(ただこの言葉だけを前後の文脈から抜き取っているから解釈の幅を広げないと危なっかしいけど)、「誰と接するにしても距離感を測るのがとても難しい」(リンク先の本文)。

カッコーの巣の上ででジャック・ニコルソンは、「精神科の学会の集まりなんだ」と言って、一人一人の名前に「博士」の冠をつけて紹介するシーンは、映画と識別しているはずなのに、なんだか現実のほんとうのできごとのように見えてしまい、どちらが正常で異常か判別できなくなるようなとまどいがあった。

私は道理にしたがってまっとうにふるまっていると思っていても、他人はそのとおりに受けとめない。自己評価を世間にすりあわせるなんて愚にも付かない行為と認識しても、他人の評価と自分の評価の接点をなかなか見つけられない。「怒鳴っても人間は変わらない!」史上最悪の工場を変えたシンプルな教え : ライフハッカー[日本版] わけだし、では褒めたらよいかとなれば、“その科学が成功を決める (文春文庫)” リチャード ワイズマン にある「ほめる教育」の落とし穴だってある。

そうやってあれこれ思い悩み、苛立ち、もがき苦しんでいると、たぶん己に帰ってくるときがある。ぐるり一回りにして我に返る。そのとき、「自分」は私から切り離され、自分が他人に与えたふるまいが、俯瞰した眺望点から見たら、誤解されても仕方がなかったと理解できる。そして理解してからが苦行なんだろうなぁって想像する。

ある日、急にふるまいかたを変えたら誰だってどうしたんだろうって思うし、どうせ長く続かないだろうと思われる。すべての人が朝目覚めた時に昨日までのふるまいをリセットしてくれるような意識の仕組みだったらとたまに妄想して自慰する。