diary

手は老いてゆく

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2012.10.19 晴れ

今朝は カサリンチュ – あなたの笑顔 でスタート。前向きというか、邦楽で採用される「がんばれ」系のフレーズは苦手なんだけど、たまにはこういう歌をすなおに聴くのもよいですね。でも、やっぱり「前向き」や「励まし」というのは、ときにもっとも残酷に人を傷つけるほどの負荷を与えかねない、って思っています。

昼過ぎに大阪へ。JRのダイヤが乱れていたので早めに出発。大阪駅で途中下車してしばらく人をぼんやり眺めていた。通り過ぎる人、立ち止まる人、スマートフォンを見ながら歩く人、大丸の行列など、空気に溶け込む人と空気からこぼれた人の差異を推し量る。僕が勝手につくった差異を自分の中で咀嚼していくプロセスから、埋もれていた視点を発掘できる。そんなあぶなっかしいことを思いついて封印していたのかとびっくり。

15:00からミーティング。ひとつ手前の駅で降りて歩く。F先生にお目にかかって話をすすめる。作成した資料をご覧になってOKをもらった。三度目の正直。いままでは首を縦に振られなかった。しっくりこられたのか、まったく別の理由があってか。推量に推測を重ねて推定する。その過程で累々たる感情が盛衰する。

主題を終えて副題の話を伺う。孤独を想起する。一人の孤独と集団の孤独の性質は異なる。関係がもたらす質感はうつろいもやもや。主従の関係が逆転している現象を認識して、主に寄り添う人は少ないだろう。誰かは、孤独が主の定めであると撃鉄を起こす。僕は発射できない。できるとしたら、構えてずっと近くで見ているだけだ。

主の苦悩に触れて、僕が改めなければならない点を確認した。盲点を確認できたかのよう。自分らしさを疑う。自分がよかれと思うふるまいは他人を不快にさせて、ひいては集団の均衡を崩す。モノを壊して壊れたモノを繕うは一連の流れかと見紛う。両者には径庭がある。モノを繕ってきた人は体感している。モノが壊されて引き起こす「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」ような混沌を。

主従と書くと、よからぬわるかろうイメージを思い浮かべられるかもしれないけれど、そういう意味をあてはめていない。

18:30前に終了して移動。19:00からM先生のミーティング。自分の備忘として記しておきたい。先生が変わってきていらっしゃる印象を持つ。背景を推量に推測を重ねて推定する。いつになれば自分の当て推量に確信を持って相手に直言できるか。ずっとできないし、そんな妄言は差し出すべきではない。直言してスムーズにすすめられるタスクと慮って回り回ってすすめていくロードの仕訳と思っている。

すごくよいミーティングで書記に集中した。

ある歯科医院でミーティングの進行を仰せつかって喋っていたとき、先生の奥様が撮影していた。この写真ともう一枚の写真には手が映っている。夜中、Dropboxに入っていた二枚の写真をはじめて開いた。こみあげてきた。まことに表現している写真は心の深部に届く。

写真の手を見た時、頭のなかで描いていた手のイメージを修正した。毎日、自分の手を見ている。手の老いを見ているようで見ていない。見ていたとしても認識していない。あるいはそこまで気にかけていない。だから自分の手はいつまでたってもむかしなにかの拍子で凝視した映像がすり込まれている。いってしまえば、頭のなかの自分はいつまでも若い。若い映像が時の進行に抗い固着している。

イメージは部活で走っているけれど、現実の足はあの時のように動かない。精神と肉体が争うから転ける。

主観と客観の溝を埋めるって、こういうことなんだ。鏡に映っている我の相貌も同じ。見ているようで見ていない。変化に気づかず、見た目の老いを自覚せず、ある日、「向こう」から客観がやってきたとき、主観がぐらつく。ぐらぐらに揺れ動き、自分の頭の中にある映像は書き換えられ、当てはまる言葉をふたたび探さなければならない。

私のなかの時間は止まり、周りの時間は進んでいる。

誰かのふるまいも一枚の写真におさめられたら、世の中の不穏な事態はもっと減るんじゃないかな。自分が思っている以上に、人は自分のことを見ているし、一方で人は自分を気にしてない。この両極をしっかり噛みしめないと他者から受け入れてもらえないし、誰かを受け入れらない。そんなふうに思い始める。

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