期待に応えるだけでは物足りない

2012.10.25 晴れ

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今朝は YUKI – JOY でスタート。歌詞がホントよいなぁ。破裂しそうです。めちゃくちゃになりそうな境目でとどまりたいけど、やっぱりめちゃくちゃになりたい。ためらって、素直でありたくて、ドキドキしたくて、だけどクールでありたく、そしていくつもの自分を統合しないでそのままでいたくて、たぶんずっと演じ続けなくちゃいけないつらさとこころよい感じが入り混じる。

人々が「立ち去る」職場について (内田樹の研究室) を読む。

人間には「好きにやっていいよ」と言われると「果てしなく手を抜く」アンダーアチーブタイプと、「やりたいことを寝食を忘れてやる」オーバーアチーブタイプに二分される。 このどちらかだけを作り出すということはできない。 そして、ブリリアントな成功を収めた組織というのは、例外なく「『好きにやっていいよ』と言われたので、つい寝食を忘れて働いてしまった人たち」のもたらした利益が、「手を抜いた」人たちのもたらした損失を超えた組織である。 「手を抜く人間」の摘発と処罰に熱中する組織はそれと同時にオーバーアチーブする人間を排除してしまう。 必ずそうなる。 「手を抜く人間」を際立たせるためには「全員を規格化する」以外に手立てがないからである。

僕は「果てしなく手を抜く」ほうだ。だから「やりたいことを寝食を忘れてやる」タイプは理解の埒外にある。そのタイプを想像するしかない。組織がアンダーとオーバーに二分される点は納得できる。僕のようなタイプで構成された組織はすぐに滅びるしかないんだから、いまある組織は両方のタイプを配置して運営しているんだろう。

問題は両方のタイプの構成比率と場の雰囲気。「果てしなく手を抜く」行為を引き締めるために大半のリソースが注がれると、その組織はゆるやかに衰退していく。その場の空間には「」関係があり、「」のなかにはややこしい単語が挿入される。もともと「やりたいことを寝食を忘れてやる」タイプは、自分と周りの環境を把握して遂行できる能力を備えている、あるいは磨いているから、「」のなかにややこしい単語が挿入されるような関係から距離を置くし、距離を置くことによって、「やりたいことを寝食を忘れて」やれなくなると認識したらさっていく。次の場でも「やりたいことを寝食を忘れてやる」だ。ただし、「やりたいことを寝食を忘れてやる」ことを求めて彷徨い続けるタイプもこのなかにはいるだろう。場や職によって私は活躍できると思い込み探し続ける。

整然と並んだ姿

人をタイプで二分できるなら、さらに分類できるだろう。例えば二つのタイプに「感情」を合わせたら4つの要素へ分解できる。

  1. 「果てしなく手を抜く」「感情に左右される」
  2. 「果てしなく手を抜く」「感情を制御できる」
  3. 「やりたいことを寝食を忘れてやる」「感情に左右される」
  4. 「やりたいことを寝食を忘れてやる」「感情を制御できる」

どのタイプがどれぐらいの比率で働けば組織はブリリアントな成功を収められるだろうか。解はない。分類して考える言語遊戯にふけって組織が成功を収められるなら、すべての経営者は言語遊戯に必要なタームを必死で学び遊ぶだろう。

二分されるなら自分はどちらかに配分される。配分された側から配分されなかった側の言動を断言できるのは不思議だ。それは神の視点から二分の世界を見下ろすから「成功」を断定できる。

鳥瞰する視点に立ち、俯瞰の図を描ける眺望点から物事を表現するとき、その瞬間がもっとも危うい。これが「全体」だと認識して「全体」を越える想像力が機能しなくなるからだ。

ひとつの立場と相反する立場を吟味して次の次元へ展開するとき、展開できたと認識した瞬間、もっとも大切な想像力を喪失しているかもしれない。