diary

おそろしいほど変わっていない

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2012.12.05 曇

今朝は 見田村千晴 – 青 でスタート。この歌もラジオから流れてくる。ちょくちょく耳にする。

寒気がやってきた。夜が長い。目が覚めたときは暗く、朝食を終えたころに光は部屋へ差し込む。曇の日はそれも望めず薄暗い。毎朝、あるものを撮っているが、この時期は難儀する。自然光が弱いから自分の上では思うように撮れない。

月曜日、F先生にお目にかかって来期の診療体制や労務関係を打ち合わせした。自分の対話能力が低下している。薄々頭で感じはじめていたことを身体も感じられるようになった。先生に申し訳なく、どうしたものかと帰りの車中で反省。テーマをロジカルに展開できない。知識が不足しているからか、着眼点が拙いか、あるいはロジカルシンキングの能力不足か、まったく異なる事由か。問題を設定することは難しい。

予想外のことがおこらないように予想する。屁理屈でもこの能力を鍛錬しなければこの先はない。いまもついつい自分の都合のよいように予想する。予想の持ちネタが少ない。進行中の結果が予想と違ったら差異にうろたえる。

数年前に“知識デザイン企業” 紺野 登 を読んだとき、PDCAのサイクルからHPRFをぼくは表現した(PDCAからHPRF | THINKSELL)。個人の判断が重要だ。個人の判断は、身勝手な行為に直結しない。全体と個の関係を観察する能力が仮説から実践のプロセスで求められる。目標の到達点から目的の到達点へ置き換え、計画と実行を分離させない。

35歳ごろからの5年の記録を読んでいると、周りの話を聴かなくなった。そう自己評価する。過去に積み重ねてきた自分の知識が、周りの話を遮断する。「もう知っている」「自分には関係がない」「いや、それは違う」など様々な感情と土台の知識が強くリンクして、他者からの入力を拒む。

進化のために変わらなければならない点を変えず、変えてはいけない点を変える。そんなことが知らず知らず起きている。自分でやっていることなのに知らず知らずはおかしいはずだけど、存外、自分のやっていることほど正しいと錯覚する。

若いころ、年長者の人がどうしてあんな嬉しそうに話をするんだろう? って不思議だった。その不思議な領域に僕は足を踏み入れている気配を感じる。

自分の体験を参照する。積み重ねてきた知識を他人に披露するときの自己陶酔感に浸っている。自分の知識は有用であり、目の前にいる人の知識は無用である。自分が優位であると疑わない。このゆるぎない思いこそ自分の知性が不調の証。知性の不調を認識できず、他人に知識を開陳する高揚感をただただ味わう。

「常に自分を疑っている」との言葉ほど疑わしいことはない。そう感じるようになった。なぜならその言葉の頻度が高くなればなるほど、変容していない。

おそろしいほど変わっていない。

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