simplicity は simple と違うよね

2012.12.12 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=y8AWFf7EAc4]

今朝は Jeff Buckley – Hallelujah でスタート。この歌を聴くとき、泣きたくなったり昔を偲んだり。誰かの顔を思い出したり、思い出したい出来事を思い出せなくて寂しくなるとか。大切な想いをココロにインストールして穏やかな精神のソフトウェアを開発したり。ホントに好きな曲だ。

フリーランスになって9年目が終わろうとしている。来年は10年目。昔から区切りは気にならない。自分自身の何周年に関心はない。ただ何年やってきたかだけ数えておく。次に履歴書を書かなければならないときがやってきたときにいつでも思い出せるようにしたいから。

10年一昔、40歳になってこの表現を味わえるようになった。頭は関心はないと言っても身体は何か区切りをつけたがっているのかしら。このところ、また一段と物を処分している。ウェブサービスを解約したり、身辺整理が加速している。

このブログのサーバも引っ越したいので調べている最中。

いまの仕事をやっている間はこのドメインで書くけれど、廃業したらアーカイブを残して別のドメインへ移行して書くつもり。ただそのときになって自分の気持ちに素直に従うからどうなるか予断を許さない。

20代や30代のころ、自宅のPCが増えていき6,7台あった。少ないとおっしゃる人もいるだろう。PCの組み立てと環境設定が楽しかったのでパーツを買い替えて余ったパーツでまた1台組み立てた。おかげでパーツを交換するたびに台数が増えた。

3,4年前から物を減らすようになった。手始めに書架の本を処分した。数百冊処分して、これから新書と文庫をまた数百冊捨てるか、裁断の外注に出そうか思案している。裁断してもらったらスキャナで読みこんでiPadに保存しておくのもよいから。

PCも廃棄してきた。先日、最後の最後まで残った愛機の電源をついに落とした。10年以上使い続けてきた。よく動いてくれた。おつかれさま。ディスプレイとあわせて近々処分する。

いずれ仕事用のMacBook Proとファイルサーバー1台の体制へ移行したい。ソフトウェアもクラウド系へ移行しつつある。手元にソフトのCDを置きたくない。もうたくさんのソフトをインストールしたくない。

近江神宮

スーツは1着だけ置いて、残りは捨てた。洋服は2年以上着なかったものを捨て始めている。なんでこんなにたくさんのカバンがあるんだ?って感じで靴もひょっとしたら2足で足りるかもとか、いやいやそれはちょっととかで駆け引きしている。

こうやって捨てていくとき、たくさんのことがわかってきた。興味深い感情を体験できた。いままでとは異なる眺望点へ行けた。

だからといって物を大切する、よい物を長く、みたいな変身は起きない。 “シンプルに生きる―変哲のないものに喜びをみつけ、味わう” ドミニック ローホー の気持ちはまったくない。よいものを買っても手入れしなければ長く使えないし、道具の本質を味わえる感性をまとっていないのに「物」を所有していもしょうがない。

なかでも自分の中での発見は、simplicity は simple の差違だ。まだうまく説明できない。

シンプルになれてもsimplicityに届かない。精神と肉体のsimplicityは異なる次元の様式。ただ物をどんどん捨てればsimplicityにはなれない。粗食がsimplicityをもたらすわけでもない。物が手元からなくなりスッキリするのはシンプルにすぎない。

両者の差違を頭の片隅に置くようになってから周りの景色はゆっくりと変わりつつある。周りからはいってくる声も変わり、解釈も変化してきた。

この変化の結果を自分が認識できるようになるまで何年かかるかわからない。その期間に突入したんだなってことだけはわかりはじめた。とてもわくわくしている。