案外脆いものよ

2013.01.09 晴れ

今朝は ROCK’A’TRENCH – 言葉をきいて でスタート。言葉をきいて、と願えども聴いてくれる人がいなければ虚空に言霊は舞う。聴いてくれる人は、現れるかといえば、現れる。でも、それを遠ざけているのは自分。それに気づかない自分がいる。

いま制作中のウェブサイトは手応えを感じる。できあがりがよいかどうかは他者が評価してくれるとして、自分のなかでの手応えは写真だ。

先生と奥様が写真を撮影してくださっている。それがどれもすばらしい。ステキだ。構図、陰影、光と影、躍動感、どれもステキだ。写真が訴求する力。

話題がそれるけど、ある先生の症例写真は、強いインパクトを持っていて、いつ拝見しても「おぉ!」って声があがる。症例写真専用のセッティングを追求されている。

こういう話を余所でしない。ここに書いているだけ。もし会話のなかに持ちだそうものなら、「写真だけでは…..」の反応を招く。お互い嫌な思いをしなくてもすむのならはじめからしないほうがよい。それを予測できるぐらいの知性はもっていたほうが健全だと思う。

話するとしたら、「対立」を乗り越えられる「関係」を信じているときだろう。

戻る。先生の腕はセミプロ級(というかもうプロだと思う)、奥様が撮影する写真は、先生と異なったトーンと感性がこめられている。お二人がDropboxに落とした写真を、僕の視点から再考して掲載する。

文章はまかせてもらっている。僕の気ままに進めさせてもらったミーティングから文章を起こし、足りないと感じる箇所はまたミーティングを開き、それと合致するイメージを伝えて撮影してもらう。

僕は「編集」に徹している。文章の土台はすべて先生とスタッフから零れてきたワードだ。それを掬いとって僕が最適化する。時間がかかるコラボレーション。

でも、医院が外側へ開かれている感覚を共有できる手応え。

なぜだろう?

Starbucks

先生やスタッフの頭はやわらかく、しなやかに動いている。先生やスタッフのボディが外側に開かれている。ただし、なんでもかんでも受け入れたり、周りから影響を受けて闇雲に修正しない。軸がある。その軸を揺るがす「コト」にふれたとき、医院の変容がはじまる。

思うに「軸がしっかりしすぎている」のは危険だ。危機ではない。危機は対処できるが、危険は衰退へ向かう。

ある先生の修士論文を拝読して、「自己変容」がつらく困難な経験であることを想像した。

他者の話を聴いているようで聞いていない。他者の発話のすべてに「反論」か「意見」を述べようとする。自分がつらいことを訴える。停滞の原因は外部環境と位置づける。自分の行為は適切だが他者の行為は不適切。

これら、いくらでもあげられる「強固な軸をもった」特徴の共通点はひとつ。

「わたしはわかっている」

これが根本にある。

自分が学んできたことがすべて。学んできたことが壊されようとしたとき強烈に拒絶する。拒絶の最中に変容が発生しかけたかもしれないが、安住の地へ再びもどる。自分の内部の中心が安住の地。誰も侵襲してこない。外部(他者)と内部(自分)の周辺と境界で対峙しない。変容はおぼろげな「境界線」から生まれる。

そして自分が納得できる「安定」へ精神と行為を向かわせる。正しいと自分に言い聞かせる。否、正しいというよりは、「賢明な判断をしている自分」を他人へ表現している。下品な言葉を使えば「ワタシってスゴイだろ or でしょ?」がアリアリとカラダからにじみ出ている。でも「こんな賢明な判断をする私は(以下省略)」的な香り。

案外脆いもの、なんだ。