diary

触れなければわからないことはたくさんある

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2013.02.26 曇のち雨

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=-yzZJ7JL8xA]

今朝は 安藤裕子 / 問うてる でスタート。iTunes でこの歌を聴いていると、日々の営みって未来へ向かっているようで、過去の記憶を自分の思うように書き換えて更新していく作業なのかもしれないって感じる。思う、より感じる。「コレがオリジナルの記憶ですよ」と誰かが囁いてくれたとしても、痛みや辛さがリンクしているアーカイブはなるべくオリジナルのまま維持したくない、なにか自分だけでも納得したいからプロテクトをはずしてこっそり書き換えていくようなイメージ。

匂いを嗅ぐ手で触ったものは、刺激の信号を送信してくれる。記憶と強く結び付く。

インターネットの技術は日進月歩で進化し、ウェブのサービスが続々とリリースされ、”ソーシャル”なんて得たいの知れない単語が、カレーライスと同じ地位を獲得したかのように日常に溶け込み、毒気のない差し障りのないフレーズが5インチほどの画面に放擲され、言葉が返信を待つのか、人が待っているか、待っていないのか、しばしばわからなくなり、フィードやタイムラインにふれて、感動しました、癒やされました、そんなこともありますよね、明日は明日がやってくきます、やら、自己啓発本が一冊書けるんじゃないかしらと思えるボリュームのテキストが浮かんでは消え、人と人はゆるやかにつながっている。

ある日、FBの’ボタン’をロボットのように押している自分に気づいた時、腐りかけている自分の精神を実感した、強く感じた。匂いも手ざわりもない、ましてや声がない。声はすべて。

スマートフォンが指向する技術は、「触覚」と「嗅覚」だといわれている。ディスプレイに表示されたモノから実際に触れているかのように、鼻を近づければ匂いがするらしい。荒唐無稽の話ではない。近い将来実現されると報じられている。

びわ湖大津館

税務署と警察署へ行く。確定申告書と提出と免許証の更新。確定申告書を眺めながら、なんでフリーランスでやっているんだろうって歩きながら徒然を慰める。道中は長い。思い巡らすには充分である。

まぁ、何も特徴のない41歳を雇用しようなんて数奇な組織はないにしても、労働を金銭の対価と考えて生活していくために焦点を合わせたら就職したほうがよいと思う。

6km ほど歩くと、目の前の景色に情報が飛び込んでくる。家屋の風合い、蕾、風の匂い、仕事の音、食べ物の色、これらをビットに換算すれば、どれぐらいの単位になるんだろう。

“センス・オブ・ワンダー” レイチェル・L. カーソン に書いてある。「目にはしていながら、ほんとうには見ていないことも多い」と。そのとおりだ。見てない。ほんとにそう思う。

過去の体験が製造した眼鏡を装着して眼前の事象を見る。否、見ていないのか。ひょっとして見る前に「結論」は出ているかもしれない。過去の体験は効率よく「情報」を処理していく。その「処理」は精神を鈍化させ、鈍化した精神は「私は賢明である」と錯覚させてかろうじて己の精神を維持している。

ほんとうに見ようとすれば、半径数百メートル歩くだけでもどれだけの時を要するのか。知識で見るのではない、感じるために見る。

見たものの匂いを嗅ぎ、手で触り、感じられるようになってユニークの記憶は保存され、いつでも呼び出して空想のなかで自由自在に書き換えられる。その書き換え作業が、私の知性を育むんだと思う。

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