私は変わった、相手は変わっていない

2013.03.16 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=gJ6I2eOgg74]

今朝は moumoon – どこへも行かないよ でスタート。ときどきストレートな歌詞を聴きたくなる。音よりも詞に反応して、自分を手入れする。まだ素直に感動するだろうか? こんなの現実じゃないよと拒絶しないだろうか? 歳を重ねるとは、若いときにまとっていた感覚に思慮分別をつけて、まとえなくなった自分をなぐさめる行為が含まれる。

11:00前に神戸へ出発。院内LANの構築の続き。結果的に失敗した。私の判断ミス。正確に落ち込み、正直に謝罪して、次の展望を提示しなければならない。

ネットワークの構成について、歯科器材側の見解と私の見解がある。理想のネットワーク構成を選択したら、引き替えにリスクを伴う。現状に近い構成を選択したら不便のままである。優先順位が焦点である。

企業は商品やサービスを販売すれば、サポートを設定している。サポートの範囲と内容が決まっている。ネットワークの構成で例えると、ハードウェアとソフトウェアがある。企業が提案するハードウェアとソフトウェアを一体で購入してもらうから、「ここまで」サポートします、と設定する。

ところが、技術の進歩と環境の変化が、「一体」を時代遅れにする。時代遅れが悪いわけではない。枯れた技術は安定している。要は、不便が便利を上回ってしまう。

だから、「一体」の一部をクライアントが用意する。企業にすれば、「一体」でない商品やサービスが含まれたら、問題発生時に原因を切り分けにくくなる。ここに見解の相違が生じる。

琵琶湖 湖畔

私は変わったと確信している一方で、相手は変わっていない、もしくは私から見える景色は変わっていない、と悶えているように、<私>は認識する。

なぜだろう?

そんなことを熟々思い巡らす。

なぜ「わからない」という状態を受け入れて、自分のなかで育てられないのか。「わからない」から「わかる」へ距離をできるだけ短くして急ぐ。

わからなくてぼんやりしている様は、具体的な情報を切り落としているから訪れる。そぎ落とされた事象を自らの感覚と思考へ委ねるチャンスである。

具体的な事柄を自らの感覚と思考によって抽象化していく「わからない」がある。他方、難解な書籍を記述を読む「わからない」もある。、後者のほうが賢くなった気になれる、たぶん。先人の「痕跡」をトレースできる。それを手がかりに現在の状況を考察できるようになれるからだ。

前者の「わからない」は、自分の感性と思考を信じるしかないし、信じすぎたら陥穽が待っている。

ネットやテレビから自動的に流れてくる情報、Yahoo! や Google やTVのニュースなど、具体的な情報を入力しても記憶に残りにくく、自分で手間暇かけて探したものを練り上げていって自分のなかで体系化・普遍化していけた情報が記憶に残り、あとあと随分経ってからも他で使い回せたりする。

そうわかっていても、ついつい「わからない」よりも「わかる」を優先して、自分の「わかる」を自身でサポートしてしまう。