ひとり二人山人余人誤認

2013.04.02 曇のち雨

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6BBJ0m9Bllo]

今朝は Quasimode – All is One でスタート。音を聴きたいときは、Quasimode . incognito, 東京スカパラダイスオーケストラやら、その他もろもろ系を流します。特に sax があればご機嫌で、あとはカラダをスイングすればパーフェクト。歌詞を耳にいれたら音と混濁して記憶が結合して過去へ遡り、アンニュイな感情を誘発しかねないと察知したら音だけのワールドへ没入。

ひとりで仕事するようになって10年目を迎え、厳しい状況は続き、常に終わりを想定しながらやっている。自覚した変化は、孤独について。かつて孤独に対するイメージは芳しくなかった。否定的、マイナス、悪い、そんなふうなイメージを持っていた。

変わった。

転じて、肯定的、プラス、良いなどのイメージを持ったわけではない。孤独、それ自体を受容できるようになってきた。さらに没入したい欲望も抱き始めている。

孤独を外から眺めていたからイメージを描けた。いまは孤独の円のなかにいる(つもり)。外側から眺めるイメージを描けない。内側からならどうだと言われたら、それもうまく描けない。孤独に対してイメージよりも実体を捉えるフェーズに差し掛かっている。イメージよりも具体的に記述したい。

孤独は大切な要素。

日常がひとりであり、誰とも話さず過ごせるような環境を設定できたらありがたい。他者の存在を強く感じられる。存在を強く感じられたらウェットな関係よりもさらりとしたリンクのほうが、他者への敬意を忘れなくなる。心地よい緊張感を持てる。依存しなくなる。

一方で寂寥感が一定の周期で訪れる。得たいの知れない感覚、言葉が頭を支配しているのか、気持ちが体を蝕んだか、わからないけれど、へんな感触がつきまとう。

最初は寂寥感との付き合い方がわからず戸惑った。いまも戸惑うが、以前よりは制御できているはず。

ひとりを体感したら誰かに依存しない。ひとりは私だけではない。依存の対象である他者にもある。他者も抱くかもしれない孤独を想像できたら依存できない。己の欲求のままに距離感を長く短くさせるようなウェットなリンクは、ひとりを体感していないからこなせる。

ひとり=孤独、ではない。たまたま運よくひとりでやってきたから孤独に埋没しやすかっただけであり、チームや組織に所属すれば、今と異なった孤独を模索していくと思う。そこにはいまよりも困難なコトが待っていると想像する。

近江神宮

ひとりでもチームでも、誰かの忠告はとても嬉しい。歳を重ねればただでさえ指摘してもらえる機会が少なくなる。自分で判断しなければならない。そう承知していても、これでよいかと迷う。

孤独と向き合うようになって視座の位置は以前の場所にない。斜に構えなくなる。なるべく素直に物事を述べる。素直は十人十色であり、素直が衝突のもとにもなる。素直は奢りの種子でもある。

孤独は傍若無人から最大の距離を置いて自律したいから、できるだけ複数の視点を求める。視点を求める過程で自家撞着して我を見失う。我を見失い、判断力が低下して、事実と意見を峻別できなくなる。挙動不審を繰り返す。どれぐらいの期間かはその時々による。その期間を経て、我を把持できたら、我と他の境界線が引き直され、我と他がだんだんどうでもよくなる。

たぶん、その「どうでもよい」状態が、理想的な孤独なんだろうと、いまは想像している。他者から何を思われているか一切気にせず、我がどう思うかも繕わず、「いま」を淡々と営む状態なのかなと。