Lake Biwa

経験を説明する「経験」はいつになったら経験できるだろう

2013.04.08 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=lWUKZstGg6M]

Ego-Wrappin’ – Calling Me でスタート。SNSと音楽は相性がよいような。音楽好きな 人が多い。ディープ。新時代の幕開け、というか、ライブの幕開け、というか、ライブ行きたくて行きたくてたまらなくなるようなさえずりやテキストが巷に溢れていて、うっかりすればほんとに一般の人?!って思うぐらいディープ、ディープ。

社会に出て10年も経てば、情報と経験が身につく。その情報と経験は、「一日早く生まれただけ」である点を吟味されない。その機会は訪れない。

私自身に照らし合わせれば、何ごとも経験と思いつつも、年数を積み重ねられれば体験できるコトは「経験」ではないと感じる。私自身が「経験」できたことってなんだろうなぁと不安に陥る。

自分がやっていることは、後からやってくる人が同じ年数、もしくはもっと短い年数で体得でき、それらを積み重ねても体験のコトを「拡張」できない。

情報も同じ。年数を積み重ねた情報は、「知っている状態」を把持しているにすぎず、かつては重宝されていた。いまは「知っている状態」がSNSやブログに代替されつつある。

10年の社会人が新人を教えるとき、共通の構造が垣間見られる。知識と経験のショートカット。同じ作業をこなすとき、前者は30分、後者は60分を要するとしたら、「年数を積み重ねた情報と経験」は30分の「差」の何割を占めるだろうか?

10年の側は、1年目から10年目までの「コト」をショートカットする。記憶と体にショートカットを作っている。アイコン。デスクトップに貼り付けて、自分の作業へ瞬時にたどり着ける。

頭は誤解する。大げさに言えば、1年目から出来ていたように記憶を改変する(そんなわけないけど頭は都合よく解釈しかねない)。身体能力の高い運動を見て、自分も若いときはあれぐらい体が動いていたと記憶を模造する。そんなに早く走ってないし、高く飛べていなかったのに、自分の記憶と体験は自分の思うがままに作り替えられる。

模造された記憶は言葉をかんたんに生成される。本人にとって模造された記憶はウソではないから他者からすればやっかいかもしれない。

他方、新人はショートカットできない。そもそも「フォルダの構造」を理解できない。ExplorerやFinderを持っていない。

ここの「差異」を年数に置換して待てない。待てない。待てないどころか、気をつけなければならない点が多々ある。多々を書けば「暗い」話になり、愚痴へ発展する。暗い話や愚痴をスマートに書ける知恵と技術を身につけていないので控えないと失礼極まりない。

ショートカットと待てないが共通の構造、と認識している。

そして、これが進むと「50,60代のおっさんがえらそうな物言いで買い物する」という構図ができあがる。内側で年数を積み重ねた情報と経験に肩書きを加えた属性が、外側の社会でも通用すると自分に暗示をかけているから、だと推測している。

そこまで酷くなくても、組織の大小問わず、この構図が見え隠れする。

「できること」と「できない」ことに距離を測らず、ショートカットを持っている優位性に甘んじ、「できる」側からの視点でしか「できない」ことの所作を推し量れない。それが「年数を積み重ねた情報と経験」の視座で、私はそこに座っているとき、「経験」していない。ショートカット使いまくり状態。

経験とは、「できること」のショートカットをごみ箱へ捨て、「できない」ことを想像しながらいままで体験していないパターンの所作を試し、いっしょに「できること」を生成していけるとき得られる「できること」の「拡張」なんだ、と推察している。まだわからない。

「できる」側から「できない」側をのぞくことはできても、「できる」側を捨てて「できない」側をのぞくことは難しい。この難しいコトにあたれるのが、「経験」のイメージかな。まだまだ自分の言葉で説明できない。経験を説明する「経験」ができていない。まだまだ。