単語は意味、言葉はイメージ

2013.04.11 曇時々雨 風強し

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=r4z_lsaSNG0]

クラムボン ナイトクルージング でスタート。大好きなアーティストの曲をお気に入りのアーティストが歌う。やわらかい歌声で。これでスタートするより、これで一日を終わった方がふさわしいかもしれないけれど、茫々と音と声を聴きたい時もある。

第十四候、鴻雁北。なぎさ公園の芝桜がそろそろ見頃かなぁと思えば、もうすぐ初鰹かともあり、ツツジが咲いてる、ってさえずりを目にしてギョッとしたり、一気に暖かくなれば気の早い実家の藤棚が目を覚ますかもワクワクしつつ、とはいえ、実家の藤棚の満開を一度も目にしていないので今年こそ見に行くかと思い、見られるときには見ておかないと思うことがそろそろ増えはじめ、会いたい人に会っておくべきとも思い、想いめぐる寒の戻り。

ある日、SNSのコメントからはじまり交信が少しずつ育てられ、やがて声を耳にするまでにいたる。偶然。不思議だろうな。10年前ならリンクしない時空。

文字が映し出す生活は、「すべて」からは足りなくて、想像力が足りないピースを補う。想像力は誤解や錯覚を含み、誤解や錯覚を含んだまま想像は願望の方向へ自然と足は向かう。

SNSはヒトに「物語」を与えた。 “のめりこませる技術 ─誰が物語を操るのか” フランク・ローズ が語るとおりフィクションの濃度が濃くなり、広告との境界線がぼやけてきたとき、いままで主役を担ってきた物語を操る装置に違和感を覚えはじめる。

脚本や台本がある予定調和の物語はすばらしいけれど、SNSが伝えるぶつ切りの細切れのとぎれとぎれの生活が「物語」へ変わってきた。予定調和のない一回の舞台。生活のなかで見つけたことをなにげくなくさえずる一言が胸に迫り、誰かが撮った写真が記憶に残り、撮影した動画に心が揺さぶられたりする。

予定調和の物語とは異なって尺は短く生活の隙間しか見られないけど、それで充分かもしれない。

自分を振り返れば、料理を手伝うようになって、外食はめっきり減り、作るが「物語」になり、誰かがアップしている料理の「物語」を目にする機会が増えた。番組で紹介されるグルメ情報を巧みに表現してあっても、それは物語風にしか見えず、美味そうに感じない。そこに欠けているのは何だろう?

Ume tree
*FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

もう一つ。SNSは言葉をもたらした。言葉から距離を置きたいけれど、SNSは膨大な量の言葉を日々生成している。多くの人が共通のイメージを持つ単語がある。絶望もそのひとつと思う。

多くの人が共通のイメージを持つ単語に異なるイメージを与える。それは言葉がなせる表現と思う。

気をつけなければならない。単語のひとつひとつを自らつないで自分だけの世界で通用するイメージを形成したとき、そのイメージが他者とかけ離れているかもしれない。かけ離れているのにうっかりその単語を他者の文脈のなかで使ってしまったら完璧な誤解を与えてしまう。

他者からどう思われようが自分の文脈のなかで自分が持つイメージのまま単語をつなげていけばよいんだけど、伝達できても伝わらないだろう。協力して何かを成し遂げる状況ならば関係に支障をきたす。

単語の意味はひとつ、または複数ある。それは辞書で定義されている範疇である。単語がつらなり形作られる「言葉」には辞書の意味からイメージへ置き換えられる。

相手が抱いているイメージを慎重に丁寧に確かめながらやりとりしないで、自分のイメージのまま「言葉」を話す。案外、そんな無謀なふるまいで成立しているのが日常であり、誤解や錯覚したままコトをすすめたほうがうまくいったりするからおもしろい。