思考と感性よりも、目で見たモノがすべてと思い込む

2013.04.24 雨

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FcWGdkoo0Fs]

東京スカパラダイスオーケストラ / Pride Of Lions でスタート。めっちゃすき。日本語訳の歌詞も好き。掃除や洗濯でこれ流すと、体が勝手にスイング、朝からアゲていけそうな錯覚だし、凹んでいるときにながせば、眼瞼の裏にためこんだ水分をからりと流してさっぱりできそうで。

SNSの環境が日常になったときに、情報は一瞬で伝達される。ボストンマラソンのテロでは、大手のメディアは時速でSNSに遅れをとった。テレビや新聞を中心としたメディアは、速報や即時についてこれからもずっとSNSに追いつけない。追いつく必要もないと思う。

一方で、Twitterのアカウントがハッキングされてデマが流され株価が一瞬で暴落するようになった。

バスのなかで障害者の子供と母を罵倒する乗客がいて、その乗客たちを運転手が一喝して降ろさせた、なんてデマが一瞬で「いいね!」されてフィードに流れてくる。

1999年に購入したマクドナルドのハンバーガーを14年もの間保存し続けるとこうなる(GIGAZINE) – 海外 – livedoor ニュース を目にして、見たモノがすべてを味わった。

写真を見て疑ってみること。包装紙とレシートが1999年だとしても、なぜ「中身のハンバーガーまで1999年」と判断できるのか? パンがなぜあんなにふっくらしているのか? 水分は? 黴の発生メカニズムは? などの疑問が浮かぶ。

「いま」「ここ」で撮影したかどうか判別できない写真であったとしても、見る側は、「いま」「どこ」の視点から視線を送る。何かの記事で読んだが、Facebookでたまたま豪勢な食べ物の写真がアップすると、贅沢な生活しているように人は受けとめたりするようだ。

タイムラインに流れてきた食べ物の写真へ、「こんな時間に食べたら太るよ」とかのコメントが寄せられている。深夜にアップされていたからだ。

この感覚が普通なのかもしれない。ウェブサイトの制作でも参考にしなければならない。少数の疑念より多数の誤解が「正解」なら、時にその正解を採用したページを作らなければならない。

ユキヤナギ

ネットの情報でも鵜呑みされてしまうんだから、編集されたニュースの映像を見て喜怒哀楽を表現する人は多いだろう。向こうは編集のプロだ。意図や願望、希望や期待をインストールして編集している。一般的にプラスのイメージを伴う単語を使ってみたが、そんな微笑ましい様相ではない編集があっても不思議じゃない。

そして、何よりも一番恐れているのは、自分だ。「自分はいったん立ち止まって考える」から騙されない、引っかからない、と自覚している時点で、すでに騙されて、引っかかっていると思ったほうがよい、と自戒している。

「騙されない」「引っかからない」という視座からしか物事を眺めなくなる。

視座と視点を固定させて、いつのまにか、その定位置にこだわるようになってしまうと、環状線の縦座席で駅弁を食べたら違和感があっても、新幹線の横座席で食べてもおかしくない、と納得してしまう感覚が養われている。なかにはどちらもおかしいと言う人がいたほうが、僕は健全だと思う。