ソメイヨシノ
diary

中庸から両極へ

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2013.04.30 雨のち曇

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=fIf9sKuny38]

奇妙礼太郎 – 君が誰かの彼女になりくさっても でスタート。CDで聴いてもぐっとくるのに、ライヴで聴いたもんだから、もう壊れた、完璧に壊れた、いくつになっても僕には忘れられない感情であり、若い時とは異なる好きがあり、好きはいくつにも変種して、多様化していき、オトナなスキもあったり、日々の営みわずかに足りないぐらいの満たされたように走り出す。

早朝から強い雨。穀雨、実りをもたらす雨と思えば、と思っても、やっぱりこの雨のなか歩くのはいやだし、こんな朝早い時間から駅とは反対の方向へ歩いて行く人たちの目的地はあそこであったら、他人の営みの一瞬を切り取って想像してみる。

第十八候、牡丹華。冬が去り、光と影、夕暮れのグラデーションを眺めているとのびやかだ。葉の色が変わっていく様を認識できないのに、稜線の質感がなんとなく力強く見え、色彩が豊かに見えるのも正常に錯覚しているからと自覚する。

先日、代々木公園で撮影した花の写真をアップした。名前を尋ねられた。わからなくて恥ずかしかった。知識を持ち、堅牢な思想を持ち合わせたい願望から花をさらりと答えられる行動様式へ気持ちは移ろう。洗練、が僕に問いかける。そう感じるようになった。

少し前までそんな自分はいなかった。いま心の中で立ち現れている。

五感がインストールする花や雲や月、光と影、色の固有名詞を知らなくても生活できる。銀行の手続き、電車の乗り方、人との会話の仕方、それらを知らなければ生活に支障をきたすだろう(困らない人もたくさんいる)。生活に支障をきたす知識を軽んずるのではない。生活の質感を自ら書き換えようとしたらブッキッシュはそれほどいらない。

ブッキッシュの知識を使いこなす知性を備えられない言い訳かな。たぶん、そう。言い訳。

ソメイヨシノ

*FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

「誰が言ったか」より「何を言ったか」のテンプレートも吟味しなおしている。自分の行動規準だけど、これを他者に押しつけないし、近ごろは、「誰」にも目を向ける。万が一、運よく僕が人格と意見を切り離すことが、’そのとき’にできたとしても、それを相手が望んでいなければ、あなたとわたしの空間はゆがんだままだ。

(不特定多数の)あなたは人格と意見を切り離すよう期待していないだろうし、僕も切り離されたらへんな気持ちだ、やっぱり。意見が批評されたとき、その場で感情をオフして意見を述べ続けらとしても、あとから自分のなかのオフされた感情と向き合い処理するのは自分だ。

人格と意見が切り離された空間の居心地の良さや拡張性の高さを体験したとき、錯覚する。意見を切り取って語彙を駆使して思考を純粋(そんなことがあるか知らないけど便宜上)に交わらせる行為と錯覚する。その行為が崇高であり、何かにつながっていきそうな高揚感を知覚する。その知覚がもたらす錯覚は「生身」をいつしか忘れる。生身を忘れたとき、両極にあるどちらかの片側に経っている。そして中庸をめざす。

いまの僕は中庸への関心が薄くなった。いらない。両極に立ちたい。心身は私ひとつだけど、「コト」の両極へ立つ視座をつかみたい。

人格と意見が切り離させる視座とゆさぶられる感情と素直に営んでいる視座、の共存と対立。自己のなかで時に共存し、時に対立する。共存と対立を超越しない。ずっとずっと共存と対立させたままから眺望する風景。どんな風景が見えるだろう、破綻しても、それを見てみたい。

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